酔っ払って打ったやつ

 わたしは女の子の形をした人形で、ネコやイヌみたいに鼻がよくないから、ドライさんの言うことが本当なのか分からなかった。それに、何年も前のおもちゃ売り場で他の知育玩具なんかと一緒に売られていたぐらいしか社会経験がないから、人間の社会がどんなものなのかも分からなかった。人形の世界の中には、恋と結婚と子育てと家族生活はあるけれど、それ以外は何もない。あとはお風呂と美容院とお友だちの家ぐらいしか世界を知らないから、わたしたち人型の人形は社会なんて知らない。ドライさんの言うことが本当だとしても、もしかしたら人の社会というものは、普通に仕事をしているだけでプシュプシュと香水の匂いがつくところなのかもしれなかった、会社のエントランスには香水の放射器が置いてあるとか、会社のパソコンを立ち上げるたびに香水が噴射されるとか、会社のトイレは香りつきの水が流れるとか。
 わたしとドライさんはあれから言葉少なになっていて、狭い空間にいるのに友だちは遠くにいて、それは寂しかったけど、ドライさんと仲良くするというのは、恭一くんの話を抜きにしては進められないことだと思ったから、わたしはドライさんがもっと恭一くんの核心に触れて、恭一くんをわたしのダメな人じゃなくて、その専有がどっこかお空に飛んでいってしまうのがこわかった。窓から見える外の世界を見ていた、「あんた、外に出たいと思う?」とドライさんがしばらくぶりに口を開いた。

外の世界のお空がよく晴れていたあの日、「町子ちゃん、あのね」と、恭一くんはわたしとにこにことガラスケースから引っぱり出して、手のひらにのせた。いつもと違うつやつやとしたスーツのようなものを着ているのを見て、わたしは、あれ、と思った。(恭一くん、なに、その服、白いの。それで会社に行くの?ちょっと派手すぎないの?)と尋ねるわたしの目をがんと見据えて、それから、にへらと笑って、「おれ、結婚するんだ」と言った。
(だれと?)目を見開いて尋ねた。まだ少しだけ期待していた、町子ちゃんとだよと言って、幼児よりも細いわたしの指に指輪を通してくれることを。
「会社の後輩なんだけど、すごくいい子なんだ。家庭的で」
 家庭的ってなにそれ、わたしもずっとお部屋であなたを待ってたんだけどわたしじゃだめなの、とぼんやり思う。頭がぼやっとしているのは、きっと誰かがわたしの頭を鈍器で殴ったからだ。
「今日これから式なんだ。もうすぐ行かないといけないんだけど、大丈夫だよ。町子ちゃんのことは結婚しても絶対捨てたりしないから安心してね。ちゃんとここのお家に置いておくし、時々帰ってくるからね」と言う恭一くんが宇宙人の言葉で喋っているような気がした。ふいに哀れみの視線を感じて、見やると、コレクションのフィギィアたちが揃いも揃ってわたしを憐憫の眼差しで見ていた。
「おれさ、町子ちゃんが人形じゃなかったら、ほんとに町子ちゃんと結婚したかったよ」続けて、じゃあ、行ってくるね、と言う背中が信じられない。なんだそれ。わたしは人形だ。十年前も十年後も三十年後も人形だ、十一年前は化学的な物質のカスだったかもしれないけど。あ、違うか、もともとわたしはカスだったんだ、なんだ、そうか。
 呆然と宙を仰ぎ見るわたしに、ドライさんは、
「あんた、大丈夫?」と聞いた。しばらく横顔のままポツポツとしか喋っていなかったドライさんの顔を久しぶりに正面から見た。バーのおばちゃんめいているけれど、喋らなければ美猫で、でもヒゲは全然伸びていなかった最初に見たときから。初めて見たとき、ヒゲが長いネコだなあって思ったのに。
「ドライさん、わたしの髪の毛、伸びないね、そういえば十年ぐらいずっと伸びないや」と髪の毛をいじったまま言う。
「当たり前なんじゃない、人形なんだから」と何でもないみたいにドライさんは言ってから、「あんた、これからどうすんの」と少し真剣味を帯びたトーンで言った。ドライさんにずいと顔を近づけると、ドライさんの顔の毛が当たってくすぐったくって、わたしにもまだくすぐったいなんて感覚があるんだなあと思った。
「どうするって?」と首を傾げるわたしに、ドライさんはつかつかと窓に近付いていき毛まみれの肉球でいくらか苦労してそれをきゅううーと開け、「逃げなさい」と言った。この部屋にいる人形やフィギィアはみんな動くことができないのに、ドライさんだけは手足を動かして歩くことができる特別な存在だった。
「いやだな、ドライさん、わたし歩けないもの」と肩をすくめてみせると、
「歩けるわよ、本当に歩けるのよ。思い込んでるだけよ」と言った、ドライさんの唾がぴゃっと飛んだ。それがわたしの頬に伝って、ドライさんはそれに気付いていなかったけれど、わたしは別にそれを拭いたい気持ちにもならなかった。
「思い込んでるだけなら、わたし人間にもなれるかな」窓の外を見ながら尋ねると、ドライさんは「それは無理よ」と答えた。外からの風がひゅうっと吹き付けて、顔を撫でた、朝の涼しい、爽やかな、なんの曇りもない空から降く風だった。ドライさんはそう言ったけど、風に揺られた髪に頬をふわんふわんと撫でられるわたしはやっぱり人間なんじゃないかなあ、と思った。
「逃げなさい、あの男が時々ここに帰ってきたってあんたが壊れるだけよ」とドライさんが言った、「そうだねドライさん」とわたしは目を細めて笑う、人形でも人間でも、今日これからわたしのあの人は結婚してしまう。おそるおそる足を出してみたら、本当に足が前に進んでびっくりした。わたしは、ドライさんが開けてくれた窓をひょいっと飛び降りて、落ちていく。スローモーションで落下していく中、わたしは世界を見ていた。部屋の窓から見るしか知らなかった恭一くんの世界。小さな手を合わせて、わたしは願う、恭一くんが幸せな人になれますように。わたしの願いとともに、コンクリートに打ち付けられたわたしの身体はぽろぽろになっていった。