酔っ払って打ったやつ

「ふあーっ、町子ちゃん、おれ、もう生きてくの疲れちゃったよお」と、恭一くんは帰ってくるなり乱雑にガラスケースを開けて、ドライには指一本触れずにわたしをケースから出した。それは金曜日の夜で、恭一に起こされて、わたしはネムネムと瞬きをした。目を開いてみると恭一くんの顔が赤くて、わたしに話し掛ける口がお酒臭いのが分かった。すっかり酔ったのだろう、恭一くんの目の上の二重線がぷっくりと膨れて赤がかって、一重になっていた。恭一くんの手に収められたわたしが振り向いて、机の上部の壁に取り付けられたガラスケースの中のドライに目をやった、ドライは恭一くんのことに気付かないように、ぐうぐうとイビキに近い寝息を立てていたので、ふうと少し安心した。私は恭一くんが大好きで、でもドライのことも好きになっていて、ドライに恭一くんのちょっとみっともないところを見られたくないと思った。
わたしの額にほっぺたをくっつけて、「もう仕事行きたくないよお」と「明日と明後日は休みだけど、明後日になったらまた会社行かないと行けないよお」「いやだもう死にたいよお」と恭一くんがくだを巻く。「町子ちゃん、ねえ町子ちゃん、死にたい、もう働きたくない」と言って、しばらくぐったりと俯く。酔ってるんだろうけど恭一くん大丈夫かな、と恭一くんの腕に手を伸ばす、恭一くんの手首の血管が走っているところにわたしの小さな手が触れたけど、恭一くんはそれに気付かない。「町子ちゃん」と恭一くんがわたしを揺らして、小鼻のべたっとした油が腕についた。手を伸ばしてティッシュを取れれば疲れた恭一くんの顔の油分全部を拭いてあげたいのに、歩けないわたしにはそれができない。わたしは油分が浮いた鼻を手でもっと触ろうとしたけど、わたしを机の上に置いた恭一くんに遮られて、上へと伸ばした手がぽかんと天井に向かって上げたようになった。カチャカチャと恭一くんはベルトを外し、少し時間を掛けてズボンを脱いだ。パンツもそこらへんに脱ぎ落として、ハダカになった下半身の腿のところにわたしを置いた。横向きのうつ伏せで、恭一くんの局部が見えるようにして。恭一くんは普段こういうやり方はしなかったのでびっくりした。恭一くんはオナニーすることはあっても、大事なところをわたしに見えないようにしたから。だから、こんなに男の人の局部を近くで見たのは初めてで、ほんのり黒がかったピンク色のそれは人間の内臓という感じがして生々しくて、見てはいけないものを見てしまった気がした。生娘のふりして目を覆いたくなって、あ、わたしは生娘なのかと苦笑して、自分の局部をこする恭一くんの手の動きを見ていた。器用だな、と思う、慣れた手つきはリズミカルで何の迷いもない正解だけを刻んでいく。わたしは恭一くんの顔を見る、目が合った、恭一くんはわたしを見ていた。ずっとわたしを見ていたけど、わたしはわたしを見られていないような気がした。恭一くんの目がわたしの身体を通り抜けて、その下の恭一くんの腿も座布団も椅子も通り抜けて、床に染み込んで死んでいく。わたしを見てほしい。頭をもたれている腿からは恭一くんの肉の温度を感じるけど、そうじゃなくて、そんな、やろうと思ったら誰でもできることじゃなくて、恭一くんの心はわたししか見ないで。恭一くんの手がわたしの手だったら、恭一くんの手が握って作る空間がわたしの中にあったらいいのにと思いながら恭一くんを見ている。でも、わたしは冷静で性的興奮なんかしてなくて、恭一くんの手すらも羨ましいと思うだけだった。恭一くんが唇の端にぎゅうと力を入れて目を固く瞑る。
「あ」と言って、噴出したものがわたしの顔にびちゃりと飛んだ。驚きのあまり顔に飛んだことに一瞬気付かなかったけれど、視界に白っぽいものがボールのようにびゅうと飛んできて、わっと目をつぶると、次の瞬間にはわたしの顔は幾度もくしゃみをくり返したみたいにべっちゃりした液状のものがついていた。生ぬるくて青っぽい匂いがして、恭一くんじゃなくて液体だけの話ならそれは少し気持ち悪くて不快だった。手で拭ってみたけれど、スライムみたいな水っぽい緑じゃなくて、やっぱりそれは水っぽい白色だった。
「ごめん、町子ちゃん、テイッシュを取ろうとしたんだけど間に合わなくて」と酔って顔を赤くした恭一くんが謝るのがなんだか悲しかった。さっきまで恭一くんを受け入れる穴になれたらいいのに、と思っていたものが、急にテイッシュで拭いて捨てられるゴミになった気がした。「待って」と恭一くんが棚から引っぱり出してきた、少し乾いてウエットテイッシュで身体を拭かれる。ごしごし、精液が付着したウエットテイッシュでわたしの顔を拭こうとしているのか、顔全体に均一に精液を伸ばしてわたしをマーキングしようとしているのか分からなくて、ちょっと目が潤んだ。精液が少しだけ目に入って痛い気がするし、やだ、やだな、と思って、ふいに壁際を見上げると、ドライさんが感情の見えない細めた目でわたしを見下ろしていた。
「あんた、あの男好きなの?」
 顔を拭き終えてすぐガラスケースに入れられたわたしにドライさんが言った。それはポンとボタンを押して答えられる高校生クイズ大会みたいなことじゃなくて、わたしは時間稼ぎのために首をひねって誤魔化すように微笑んでから、
「いつから見てたの?」と聞いた。ドライさんはタバコを吸って、ふーと煙を吐き出すふりをして、わたしを本当に少しだけ笑わせるとしばらく何も言わなかった。
 それからゆっくり唇を開いて、「あんたはもうずっとここにいるから忘れたんだと思うけど、あたしは最近まで百貨店のおもちゃ売り場にいたから分かんのよ。大抵来る客は、金持ってる男と結婚した女が子ども連れてくるときか、ジジババが孫にプレゼントを買いに来るときね。でもために、百貨店の化粧品売り場で働いてる女なんかが、なにかのプレゼント選びのために来んのよ。そういう女ってなんか知らないけど香水の匂いがぷんぷんするのよ、あ、あたしがネコだから鼻が敏感なのかもしれないけど。男を釣る動物フェロモンのつもりか知らないけど臭くって仕方ない。それと、同じ匂いがする。最近のあの男は」と言った。
「どういうこと?」
「香水の残り香よ。やっぱりネコだから鼻がいいのかしらね。知らないけど、あの男、女ができたんじゃない」とドライさんはまだタバコを吸って吐き出すふりをした