酔っ払って打ったやつ

鉄製の靴箱は開く時と閉じる時にカン、と音を立てる。土曜日の部活帰りの四時過ぎなんだった。赤茶色いローファーを取り出して履き、深緑色のスリッパを代わりに仕舞う時、右手の指の股に油絵の具がべたりと残ったまま取れていないのを見つけて、あー、と思った。美術室の固形石鹸は表面が様々な絵の具の色に染まっていて若干気持ち悪い上に落ちまで悪い。人差し指と中指の股を開いてその赤をつつくと固まっていた、靴箱は閉じる時にもカン、と小さく音を響かせた。ローファーでトントンと地面を叩き校舎から出て行こうとする。外に開かれた扉の向こう、体操着姿で走り込みをしている運動部の人達が見えた他に人はあまりいなくて、運動場からの体育会系の部活の声や、芸術棟からの吹奏楽部などの音が遠くから雑多に混じって聞こえてくる。校舎を出、土曜日の午後四時の生ぬるい開放感を吸い込んで肺いっぱいに満たした、昼前まで雨が降っていたのが今日のことじゃないように空も晴れていた、花壇のそばのベンチの男の子が、「あの、ごめん、ちょっといいかな」と声を放った、多分私にだった、目が合った。白い半袖のポロシャツにグレーのチェックのズボンの、紛れも無くうちの学校の制服を纏った人間の男の子だった。私の肩はぴくっと震え、「なんですか」と唇は微かに振動した。コンクリートに支えられて立つ、自分のローファーと白い靴下に目を落とす、今朝の雨でローファーの赤茶色が靴下に染み出したのだろう、足首の辺りに、赤の絵の具を薄く溶かしたみたいな痕がついていた。
「あの、おれ三組の池口って言うんだけど、好きだったんだ、一年生のときから」私の身体のうち耳だけが彼の声を聞いていた、目も心も彼を見ないで耳だけがその声を受信していた。自己紹介に続く言葉がなんでそうなるんだろう中学生って不思議だよねと冷静に思う一方で、細胞たちが彼を攻撃したくてふるふるしていた、独りよがりのごっこ遊びに浸かって気持ち良くなりたいならそういうのが好きな女の子とやってくれよなんで私に独善的な矢が飛んでくるんだよ、って。指の股の赤油絵の具をかりかりと掻く。「いきなりこんなこと言われてびっくりするかもしれないんだけど、あの、良かったら」かりかりかり、掻く力が強まって絵の具カスは皮膚から剥がれて地面に落ちていった。「気持ちは嬉しいけどごめんなさい」と口から落とした声が塵のように空気中を漂うのを見届けないまま足早に校門へ歩き出そうとするのを、「え、あ、ちょ」と言葉にもなってない音で止めようとして腕を掴んだ。半袖シャツから露出した肌、素肌の手首を掴まれたのに驚いて彼を思わず見た。見たくなかったのに、人間じゃない浅ましく卑しいオスの目だった、その目の中に欲望の対象としての私が映っているのがすごく嫌だった。くらくらした。手首に重なる、太陽光を吸って黒くなった私よりごつい手、触らないでと発せなくて手首を振る、「あ、え、ごめん」力が緩んでぱっと開いた途端、「ごめん、私、そういうのはいいんだ、ごめんね」と、駆け出すように校門へ向かった。建物の影になって日当たりの悪い所は雨が乾ききっていなくて薄い水溜りが残っていて、歩くのが下手くそになった私は砂混りの茶色い雨水を時々撥ねさせた。まだ後ろから見ているかもしれないと思ったら肩と背中と足が強張って、誰かに、自意識過剰だよと笑われるかもしれないと思った。でも、私だって、この世界の人間の半分が男なのは仕方ないと思っている、欲望を分け合う男女のつがいがいることもどうしても許せなくはない、でも私はそれを私の中に見出されたくないそれだけだ。人間の男は人間でも、オスは人間のような知的生命体ではなくて男性器が肥大して人の形をした存在で、脳味噌にはゼリー状の精子が詰まっているのだ。校門を出て角を曲がってようやく少し力が抜けて、教科書と辞書で膨れたスクールバッグが右肩にゆっくりと沈んでいくのを感じた、バス停までの道をつま先が踏んでいくのを見ながら歩いていく。