「はいはい、姉さん、お待たせさん」
船員のおじさんが、手早く乗降口の扉を開いた。
小さな高速船は、ようやく我那波島の港に着岸したのだ。

「やった!陸地だ!」
歩み板が桟橋にかかるやいなや、私は転がるように上陸した。

「あぁ・・、揺れてない。
しっかりした地面って、本当に素敵」
桟橋前にへたり込み、揺るぎないコンクリートをしみじみと撫でさすった。

わずかにいた同乗客の皆さんが、私を追い越しざまに吹き出していく。
でも、構うものか。
今はひたすらに大地に感謝すべきだ。

なんて、気分はすっかり遭難者である。
しかも、九死に一生を得たばかりの。

「生きてるって素晴らしいわ・・」
一人盛り上がる私はさておき。

我那波島の港は、こぢんまりしていた。
港と言っても、桟橋はたった一本しかない。
人の気配もない。

「ぶにゃ〜ん」
無愛想ながらも出迎えてくれたのは、まるまると太った三毛猫が一匹ぽっちだ。

「うわっ!なに、この猫」
のっそりと歩み寄ってきた三毛猫を見て、私は驚いた。
三毛猫はものすごく不細工だったのだ。
顔立ちというより、毛皮の模様が。

猫の模様を決める神様がいたとしたら、きっと、この三毛が順番の時には、居眠りをしていたにちがいない。

だって、模様がめちゃくちゃだ。
特に顔の部分がヒドい。
まるで下手くそなパッチワークみたいである。
ツギハギが激しすぎて、どこに目鼻が付いているんだか、分からないくらいだ。

しかも、性格もあまり良くないようだ。

「ぶにゃっ」   
私が餌を持っていないと察すると、あからさまに鼻を鳴らして、のっしのっしと日陰へ引き上げていった。

「なんだ、ありゃ」
ふてぶてしいったらありゃしない。

歓迎の意が感じられるのは、岸壁に書かれた『ようこそ我那波島へ』の文字だけ。
しかし、ペンキは見事にハゲチョロケだ。

え〜、忖度なく申し上げますと、港はどこもかしこもボンボロボンで、寂れまくっていた。
正面玄関である港が、この有様ということは、島内も推して知るべきだろう。

だが、ついさっきまで物理的な荒波に揉まれていた私にとって、うらぶれ具合など些事である。

要は、地面が揺れてなきゃいいのだ。

それに、初めての一人旅は、人気のない南の島で、のんびり静かに過ごしたいと思っていた。

寂れ具合は、むしろ大歓迎と言ってもいい。

「姉さん、落ち着いたか?
座ったっきりだけど、具合悪いのか?」
船員のおじさんが、心配そうに私をのぞき込んだ。
日焼けした眉間に、深々と皺が寄っている。 

「いえ、大丈夫です。
全然元気っす!」
これ以上、人の良さげなおじさんに、お手数かけるわけにはいかない。
私は勢いよく立ち上がった。

「それなら良かった。
それはそうと、姉さんは、この島には何しに来た?
観光か?
それとも、もしかしたらよ。
・・その・・島に知り合いや親戚でも来ているのか?」
おじさんはもごもごと言いよどんだ。

「はいっ、観光です。
しかも、人生初の一人旅です」
「へぇ〜、一人旅ね。
それはいいねぇ。
だったら、ゆっくり楽しんでいきなさいよ」

元気よく答えると、やっとおじさんの眉間の皺が溶けて無くなった。 
代わりに、開け放しな笑みが現れた。
目尻から浅黒い頬にかけて、くっきりとした笑い皺が浮かんでいる。
おじさんってば、笑うととってもチャーミングだ。 

「そうは言っても、この島には何にもないけどね。
あるのは海くらいやっさ」
謙遜しつつも、ご自慢なのだろう。
ぐいと背後の海を顎で指し示すおじさんは、ちょっとドヤ顔だ。

これは、旅行前に期待していたアレかな?
ほら、地元の人との心温まる交流!
来た来た!
来たぞ!

きらりと胸が踊った。 

「南の島って言ったら、海ですもんね。
私、すごく楽しみに・・」
ぺらぺらと調子よく喋りながら、おじさんの背中越しに、すぐそこの海をのぞき込んで。

私は絶句した。

鮮烈な「あお」に、目を奥底まで裂かれたのだ。

離島行きの波止場で眺めた海も、飛行機から見えた海原も、それはもう美しかった。
(高速船に乗っている最中の海は、眺める余裕なんてなかったから、遺憾ながら除外する)

例えるなら、翡翠やアクアマリン、エメラルドといった宝石を溶き流したようだった。

しかし、我那波島の海の「あお」は、今まで目にしたどの海よりも、美しく透き通っている。

これは、宝石の無機質な色じゃない。

まるで、あおい焔が燃えているみたいだ。

「・・すごい色・・。
こんなの見たことない。
これって青?
いや蒼かも。
それとも碧かな。
何なんだろう。
・・分からないや。
とにかくすごい」
なんとなく、大声で叫びたてるのがはばかられて、小さく囁いた。

「とにかくすごい」って、我ながら頭が悪そうな表現だ。
しかし、圧倒的な美しさは、口先の小賢しい賞賛なんか、絶対似合わない。

「気に入ったか?」
おじさんがのんびりと煙草をふかした。
何気ない風を装っているが、得意げに小鼻が膨らんでいる。

「はい、本当きれいです。
来て良かったです、我那波島!
こういう島を『天国に一番近い島』って言うんでしょうね」
思いつく限り、最高の賛辞を口にした。

ところが、である。
言い終えるなり、ふつりと、おじさんの笑みが消えしまったのだ。

「・・まあ、そうね。
この島はさ、ある意味グソーに近い島なのかもな」
何故か、おじさんは、またもごもごと言いよどんだ。
まだ吸い始めたばかりの煙草も、そそくさともみ消し、ぷいと私に背を向けてしまった。

「・・え?・・あの・・」
態度の急変に戸惑うが、おじさんはお構いなしだ。
やけに熱心に船周りの作業をこなしている。

ほんわかとした先ほどまでの温かさは鳴りを潜め、実に気まずい沈黙が満ちた。

何かマズい発言をしてしまったのだろうか。

「あの!えっと、グソーって何ですか?」
雰囲気を修復すべく、私は急いで口火を切った。

おじさんは一瞬だけ作業の手を止めて、私を振り返った。

「・・あぁ。
グソーってね、あの世って意味よ」

そうして、苦々しく呟き、それっきり私を振り返ることは無かった。