3【にわか雨は終わりを連れてくる】
何事においても、「終わり」というものは、突然に訪れるものだ。
ヤツは目の前に迫ってくるその時まで、日常に紛れ、穏やかな顔をして近づいてくる。

そして、すれ違いざまに、いきなり私達を切り捨てていく。
変えようのない現実という刃物で。
躊躇いもせず、容赦もなく。
どこまでも無慈悲に。

そうやって、切り捨てて去っていくヤツの後ろ姿を見て、私達はようやく思い知る。

失ったもの大切さを。
立ち尽くすほどの喪失感と共に。


無慈悲な終わりが、私達にその刃を振り下ろしたのは、何の変哲もない極々平凡な日だった。

「今日は暑かったなぁ」
「うん、日差しが特にキツかったわ。
ねえ、ちょっと涼んでいかない?」
「おう。じゃあ、鳳凰木のとこな」

さんざん遊び回った後で、もう夕焼けが始まりそうだったれども、まだまだ帰りたくなくて。

暑さのせいにして、ぐるりと遠回りをした。

少しズルをしたバチが当たったのか。

鳳凰木に到着するほんのちょっと手前で、激しいにわか雨が降り出した。

にわか雨と言っても、南の島のそれは、生やさしいものじゃない。
いわゆるスコールで、地元ではカタブイと呼ばれている。
雨粒が当たると、皮膚がうっすら赤くなるくらいに強烈な集中豪雨だ。

「ぎゃ!降ってきちゃった!」
「叫んでる暇があったら、走れ!」
最初の一滴が垂れるなり、丘を駆け上がったが、雨は一切手心を加えてはくれなかった。

「うわー、びっしょびしょ!」
這々の体で鳳凰木の元へたどり着いた時には、私も雪人も、頭の先から爪先までずぶ濡れになっていた。

「寄り道が雨宿りになったな」
「不幸中の幸いね」
これ以上雨に当たらないよう、木の根本に身を寄せ合った。

「ここまで濡れると、南国といえども肌寒いもんなのね」
肩を縮こめ、足にからみつくスカートを引っ剥がしていると。

「美羽!触るぞ!」
やけにせっぱ詰まった雪人が、いきなり宣言して、がばっと私の背中に貼りついた。

いつもの「触っていいか?」の許可ではなく、有無を言わせぬ宣言は、初めてのことだった。

「ななななななに?」
私は非常に動揺して、距離をとろうと身をよじった。

「馬鹿っ!
動くな!
振り向くな!
頼むから、離れるな!
・・濡れたワンピースが透けて、体にぴったりくっついてるんだよ。
中途半端に距離とったら、視界に入る。
だから、離れるな」
きゅうっと、肩に雪人の指が食い込む。
雪人も激しく動揺しているようで、背後から聞こえる声は一部ひっくり返っていた。

「うっ!」
今更ながらに恥入るも、もう後の祭りだ。
奇しくも、本日の下着は水色ストライプ。
初めて雪人に会った日、不可抗力で大公開したのと同じものだ。

「今日も水色ストライプだけど、これ一着しか持ってない訳じゃないからね!」
少しでも恥を軽減しようとしたが、
「分かっとるわ、阿呆!
いちいち申告すんな!」
雪人に罵られた。
どうやら、恥の軽減どころか、上塗りをしてしまったようだ。

「おい、このまま座るからな。
いいな、ゆっくりだぞ。
絶対離れるなよ」
「・・うん」
雪人の先導の下、二人羽織よろしく、そろそろと幹の傍らに腰を下ろした。
木の下は狭くって、二人で座ると、どうしても雪人が後ろから私を抱きしめる形になる。

「あ〜・・今更だけど、触ってもいいか?」
決まり悪そうに、雪人が申し出た。
俺様何様雪人様なくせして、妙に生真面目なところがあるのだ。

「はい。いいわよ」
くすくすと笑って、後頭部をことんと雪人の肩に落とした。
ぎょっとする雪人と、雨に濡れる緋色の花が視界いっぱいに広がった。

「雨の日の鳳凰木も綺麗ね」
後頭部を預けたまま、うっとりと花に見入ると、強ばっていた雪人も、ようやく力を抜いた。
そーっとそーっと、私のこめかみに頬を寄せてくるところが、とても可愛らしい。

見上げる花はしっとりと雨を含んで、猛々しくも見える緋色を、ほんの少しだけ柔らかくしていた。

大粒の雨滴に打たれた花弁が、はらりはらりと舞い降りてくる。

花弁が連れてきた花蜜の香りが、低く濃く垂れ込めた。
ざんざんと地面を叩く音がやかましくて、いつも聞こえてくる潮騒の音も聞こえない。

幻想的な光景だった。

「世界にたった二人っきりみたいだな」
ぽつりと雪人が落とした呟きが、深く響いた。

なんだか、とても寂しげに聞こえて、視線を雪人に移すと、雪人は一心に私を見つめていた。
緋色の花でもなく、降りしきる雨滴でもなく、ひたすらに私を。

「・・雪人?」
なにやら思い詰めた風情に不安をかき立てられ、身を起こそうとしたのだが、その前に雪人が息が詰まるほど強く私を抱きしめた。

「陳腐だけどさ、こんな日には本気で思う。
このまま、時間が止まればいいのにって」
雪人が強く頬を埋めた首筋から、震える声がした。
声はあまりにも弱々しく痛々しくって、理由を問う気にはなれなかった。
ただただ、雪人を弱らせる何かから、守ってあげたくてたまらなくなった。

「時間を止めるのは無理だけど、私でよければ、ずっと雪人の側にいるよ?」
なんとか手を伸ばして、濡れた艶髪を撫でた。

だが、雪人は私の首筋に頬を埋めたまま、黙って首を横に振った。

また拒絶だと、泣きそうになった。

連絡先交換の拒否にしろ、期間限定の恋人契約にしろ、雪人は決まって私との間に線を引く。
私が島から出た後の時間帯に、関わろうとしないし、関わらせようともしない。

もうすぐ私は島を出なければならない。
そろそろ旅行期間が終わるのだ。
それなのに、雪人はまた私との間に、強く線を引き直すというのか。

「雪人はさ、私が嫌いなの?」
こんな時に泣くのは卑怯だ。
だから、滲んできた涙を瞬きで散らし、できるだけ明るく軽く問いかけた。

「違う!
絶対そんなことはない!」
雪人はすぐさま否定した。
その言葉が本当なのは分かるけれど、だったらどうして?
そう思ったら、やっぱり泣けてきた。

「ごめん。
泣くつもりじゃなかったのよ。
気にしないで」
失敗、失敗とおどけて呟き、無理矢理笑顔を作った。

「謝るなよ。
美羽は何にも悪くないだろうが。
ただ、俺が・・。
全部、俺が」
言いかけたその時だった。

「ぐぅっ!!」
雪人が、ねじ切られたような呻き声をあげた。
どんと棒杭みたいに体が横様に倒れ、私は地面に放り出された。
びくんびくんと自分勝手に四肢が跳ね、すらりと長い手足は瞬く間に傷つき、泥だらけになった。

「雪人!?」
駆け寄って抱き起こした体は、酷く硬直している。のぞき込んだ顔もひきつったまま強ばり、目は白目を剥いていた。
どうみたって、雪人の体に異常が起きている。

「雪人!しっかりして!」
呼びかけても応答はない。
そうこうしているうちに、雪人の呼吸が浅くなり、口角から泡が吹き出てきた。

このまま、雪人が死んでしまうかもしれない。

私は芯から怖気だった。

救急車を呼ぼうと思ったが、狭い島のことだ。
迎えが来るより、こちらから病院に向かった方が早い。

「ごめん、雪人!
すぐに戻ってくるから、待ってって!」
抱き抱えた雪人をできるだけ早く丁寧に地面に寝かすと、私は全速力で丘を駆け下った。

額で雨の幕を切り裂いて走る。
何度か転んで、白いワンピースはどろどろになった。
サンダルもいつの間にか両方脱げていた。

「よしオバア、助けて!
雪人が倒れた!
鳳凰木の、ところにいる!」

満身創痍で海風荘の玄関に駆け込んできた私を見て、よしオバアは悲鳴を上げたものの、以後の行動は迅速だった。

すぐさま玄関から走り出て、大声で呼ばわった。

「安治ぃ!隆正!
皆、手伝って!
急病人よ!鳳凰木のとこで倒れてるってよ!
早く早く人手がいるよ!」

近所の人達が血相を変えて、家々から飛び出してきた。

「病人は誰ね?」
「聖クララ病院に入院してる雪人よ!」
「雪人?あのホスピスにいる子か?」
「なんと、またあの子か!」
「なんでぇ!?まだ若いのに!」
「可哀相によぉ!」
「いいから、早く運んで!
助かるもんも助からんよ!」
「病院にも連絡まわせぇ!」

何人もの人が、慌ただしく走っていった。

土間に座り込んだままの私からは、血の気という血の気が失せた。

「美羽さんは、家で待ってなさいね。
大丈夫だからね」
真っ青になった私に目を留めたよしオバアが、急いで玄関の引き戸を閉めて、急場に狼狽える人々から私を遮断してくれたけれど。

善意の人々の嘆きは、もうすでに、私に残酷な事実を知らしめた後だ。

衝撃は完膚無きまでに私を打ちのめした。

わんわんと、叫びたてる声が聞こえる。
もしかしたら、雪人が海風荘の真ん前を運ばれていく最中なのかもしれない。

でも、怖くて、怖くて。
とても怖くて。

薄っぺらい引き戸を、開けることができなかった。

入院って、何?
またって、何?
ホスピスって、何?
可哀相って、何?

ガラスのヒビをただただ見つめ、私はずっと凍り付いていた。

土間に座り込んだまんまで、どれくらいたっただろうか。

「・・美羽さん。あんた、ずっと、そこにいたんか。
ほら、もう部屋に入ろう。
腰が冷えてしまうよ」
采配を終えたよしオバアが帰ってきて、声をかけてくれた頃には、泥のしみこんだスカートは乾いてしまって、さらに薄汚くなっていた。