2【遠ざかる歌】

そして、時は夕方。

「急がなくっちゃ〜。
急がなくっちゃ〜」
私は意気揚々と、待ち合わせの浜辺へと急いでいた。
美容に専念するあまり、約束の時間をやや過ぎてしまったのだ。

時間にうるさい雪人のことだ。
待たされて怒ってるかもしれない。

しかし、美玉のお肌を手に入れた私を見れば、そのみみっちい怒りも、淡雪のごとく溶けるであろう。

そうなのだ。
よしオバア愛用の海藻パックの効果は、凄まじかったのだ。

おかげで、どこもかしこもつるんつるん!
ワンピースの生地も、するんするんとお肌の上で滑る滑る!
ほら、ちょっと手をかざすだけで、手の甲に光のリングができるくらいにピッカピカ!

「島から帰る時には、有り金はたいて海藻パックを買いだめて帰ろ」
輝くお肌を撫でさすり、私は固く決意した。

ところが、である。
待ち合わせの浜辺に着くやいなや、事態は私の予想を大きく裏切った。

「おいこら、美羽!」
雪人は私の顔を見るなり、美肌に恐れ入るところか、不機嫌そうにキッと目線を鋭くした。
そして、とんでもない失言をかましやがったのである。

「お前ふざけんなよ。
遅れてきた上に、油物食いながら来たのかよ。
なんだ、そのてっかてかの顔は。
せめて食べカスはちゃんと拭けよ」

ぶつんと、こめかみあたりで何かが千切れる音を、私は確かに聞いた。
おそらく堪忍袋の緒が切れた音だと思われる。

「はぁああああ!?
雪人っ!君、何言ってくれちゃってるの?!
この美肌の権化が、油物の食べカスだと!?
ふっざけんじゃないわよ!
こちとら朝一から、ついさっきまで海藻パックだの脱毛だのに終始して、美肌を手に入れたのよ!
見なさい!
この輝くお肌を!
そして、恐れ入りなさい!」
私はワンピースをばっと脱ぎ捨てた。

「うわぁああ!」
雪人は真っ赤になって、目を両手で覆った。

けれど、ご安心ください。
履いてますよ。
ワンピースの下には、白いビキニを装着済みである。

「ほらほら見なさいよ!
内腿まで光り輝くこの様を!」
「やめろ!内腿とか言うな!
阿呆か、お前!
見せるな、ボケェエエ!」
嫌がる雪人にぐいぐい迫って、美肌を見せびらかした。

「なにして・・アキジャビヨー!(なんてっこた)
姉さん!裸で何してるか!」
高速船のおじさんが、たまたま通りかかり、失礼にも悲鳴を上げた。
両手に持っていたスーパーの袋を放り出して大慌てだ。

「あら、船のおじさん。
ご無沙汰してます。その節はどうも。
大丈夫ですよ、これ。
裸なんかじゃないです。
最新の水着なんですよ」
私は愛想良く挨拶した。

「ど阿呆!
そんなもん、裸も同然だ!
なんだ、その極少の布面積は!
ふざけんな!」
雪人が怒髪天を衝く形相で怒鳴った。
光の早さで自分のTシャツ脱ぎ、私に素早く着せた。

「すいません、びっくりさせて。
俺が責任を持って、ちゃんと着せますんで」
「そうしてやれ。
兄さん、デージヤッサー(大変だな)」
雪人が最敬礼すると、おじさんはスーパーの袋をかき集め、よろよろと去っていった。

「なんか、失礼ね」
「失礼千万なのはお前だ」
文句を言うと、語尾に被さる勢いで言い返された。

「何よ、皆して。
可愛い水着なのに・・。
高かったのに・・。
これ着て、雪人と泳ぐの、すごい楽しみにしてたのよ。
見たくないくらい、私には全然似合ってなかった?」
ついつい、頬がふくれた。
恨みがましく雪人を睨みつける。

「・・似合ってた」
整った顔を、鬼瓦みたいな渋面にして、雪人がぼそりと呟いた。

「じゃあ」
「待てぃ!」
Tシャツを脱ごうとした手は、また光の早さで止められた。

「何でよ!?」
「うっせぇ。
よく見ろ。
浜には俺達以外にも人がいるだろうが」
雪人はまるで大問題だとでも言わんばかりに、重々しく言い、浜辺に険しい視線を走らせた。

確かに、観光客らしき人がちらほらと海を楽しんでいる。
それがなんだと言うのだろう?

「それと、Tシャツ着用強制に、何の関係があるのよ?」
「だーかーらー!」
重ねて問うと、雪人は困り果てた様子で、片手で顔を覆い、天を仰いだ。
叫び終えると、せっかくの綺麗な艶髪をわっしわっしと数度かき回した。
それから、ずいと勢いよく私の耳元に口を寄せた。

「美羽の水着姿、可愛いすぎ。
だから、他のヤツには絶対見せたくねぇ」

囁き終えると、雪人はバネ仕掛けの人形よろしく、私から飛び離れた。
顔は茹で上げたように真っ赤だ。

「ソ・ソーデスカ・・」
たぶん、私も顔が真っ赤だ。

「そういうわけだから。
今日はTシャツ着用で。
泳ぐぞ」
「了解。
Tシャツ着用します。
泳ごう」
照れ隠しに、どこぞの軍隊みたいに復唱し、ぎっくしゃっくと浜辺へと駆け出す。
そうして、あおく燃える海へ飛び込んだ。


夢にまでみた「あおい海」は、そのただ中にいても、どこまでもあおく透き通っていた。

足が立たない深さでも、ついと伸ばした爪先のまではっきりと見える。
ガラスみたいな透明度だ。

「すごい綺麗!」
「今、足の間を魚が泳いでったぞ!」
はしゃいで泳ぎまわるうちに、照れくささも気まずさも、全部全部海に溶けていった。

「気持ちいい〜」
水音をたてないよう静かに海の中に立っていると、耳のすぐ側で波の立ち騒ぐ音が聞こえる。
きらきらと珊瑚が歌う音色も入り交じって、なんだか竜宮城の子守歌みたいだ。

「ねえ、雪人。こうやって立っててみて。
海の中でも、珊瑚の歌が聞こえるよ」
「へぇ〜。どれどれ」
私が誘うと、雪人は興味津々で耳を澄ませた。

珊瑚の歌を聴き、雪人が顔を輝かせるのを、私は待った。

だが、期待に反して、雪人の顔はにわかに曇った。
長い睫毛が激しく震える。
形の良い指はしきりに両方の耳を引っ張り、唇は強く噛みしめられた。

なんだか、大きな衝撃を受けたかのようだ。

「・・あぁ」
驚く私の視線にも気づかない様子で、雪人は苦しそうに呻いた。

「雪人?どうしたの?
耳、どうかした?」
「いや、なんでもない。
ちょっと水が入って、気持ち悪いだけだ」
雪人は弾かれたように顔を上げ、急いで耳から手を離した。

「美羽。
今度は浜で砂の城作るぞ。
すごいでかいヤツ。
お前も手伝え」
さっきの重苦しい表情が嘘みたいに、けろりと雪人は笑って、いつものごとく俺様節を炸裂させた。
返事も聞かず、さっさと浜辺へと上がっていく。

後から思い起こせば、海の中で少しだけ雪人が見せた重苦しい顔は、私達から明るく楽しいだけの日々が遠ざかっていく第一歩目だった。

でも、この時の私は、気づかなかった。

当たり前にある日々が、遠ざかって行くだなんて思いもしなかった。

「はいはい。
お手伝いしますよ、俺様何様雪人様」

だから、いつもの通り、軽口混じりに返事をして、いつもの通りの笑顔で雪人に駆け寄ったのだった。