4【珊瑚が歌う夜】
連絡先交換が発端となって、大喧嘩をやらかした日の夜のことである。

「ぃよっし!
どこもかしこも完璧ね」
私は鏡の中に映る自分と目を合わせ、にやりと好戦的に口角を引き上げた。

今宵の装いは、久々にお出ましいただいた白いワンピースだ。
メイクもばっちり、髪だって念入りにセットした。

「待ってなさい、雪人め」
隙なくお洒落して、猛々しく気勢を上げる。

其れは何故か。

そいつは、別れ際に、雪人が放った宣戦布告に応じるためである。

先ほど、ヤツは言い捨てたのだ。

「とにかく、今晩九時、漁港裏の浜に来い!
俺の本気のロマンチックを見せてやらあ!

覚悟しろよ、美羽。
絶っっ対、ぎゃふんと言わせてやるからな!」

こうまで言われたのに、穏和ぶって勝負を避けたら、私の沽券に関わるってもんだ。

「雪人のヤツ、言ってくれるじゃない。
そういや一個年下のくせに。
あんな生意気なガキンチョなんざ、年上の魅力で悩殺してくれるわ」
戦闘意欲をよくよく燃やしつけてから、玄関に降り、夕飯後に磨き立てておいたサンダルを履いた。

「あれぇ?
美羽さん、こんな夜に綺麗な格好してどうしたの?
あぁ、そういや、今晩は公民館で青年会の飲み会があったねぇ。
美羽さんも呼ばれたんか?
あいっ!いけないよ!
あんた、まだ未成年さ。
飲酒はダメよ」
よしオバアが物音を聞きつけ、玄関に降りてくる。
いつも通り、一人でしゃべって一人で納得して、キッと眦を上げた。

「安心して、よしオバア。
飲み会なんかじゃないよ。
私は、今から雪人との果たし合いに行くの。
勝ってくるわ!
あいつをべっこべこにヘコましてやるから!」
ぐっと握った拳を掲げ、気炎をぼうぼうと上げてみせた。

よしオバアは、きょとんとして目を瞬かせた。
「果たし合い?
何よ、それ・・。
まあ、雪人くんとだったら心配ないね。
夜だし、気をつけて行っておいで。
よく分からんけど、どうせ勝負するなら勝ってくるんだよ」
「はいっ!いってきまっす!」
よしオバアの戦勝祈願を受けとり、気合い十分で海風荘を出た。

殺気立つ私とは裏腹に、島の夜は穏やかで、透き通っていた。

海風は、遠くで聞こえる潮騒を乗せて、ゆったりと木々を渡っていく。
濃紺の夜空が懐に抱くのは、丸い銀の月だ。
月光の陰で、名前も知らない星々は遠慮がちにさんざめいていた。

明るく美しい月夜である。

「わっ!月の光で影ができてる!」
何気なく足下を見て目を丸くした。
月光があまりに明るいものだから、昼間のように地面に影がおりていたのだ。
都会では考えられない光景だ。

「綺麗かも」
月光の作る影は、昼間のものとは全然違った。
夜闇の中でも、はっきり際立つほど明瞭で、冷や冷やするほど深い蒼だった。

海風に舞うスカートと一緒に、影が踊る様を見て、ふと思う。

私の蒼い影の隣に、雪人の影を並べたら?
影の蒼はもっと深く、うっとりと甘くなるのではないだろうか。

「はっ!何を考えてるのよ。
これから勝負だってのに、呆けてどうする?
やだ、もう浜辺はすぐそこじゃない。
しっかり、私!
勝つんだ、私!」
危ういところで夢想から立ち直った私は、気合いを入れ直して、白い砂浜に足を踏み入れた。

皓々とした銀の月光を背負って、雪人は立っていた。

「・・来たな」
「・・来たわよ」

ざっくざっくと真っ白な砂を蹴散らして、間近まで歩み寄った私達は、ぎりりと睨みあった。

・・確か、この勝負の如何は、ロマンチック云々だったような気がするが、そんなことは、もうどうだっていい。
とにかく、雪人の鼻っ柱をボッキボキに折ったあげく、粉々に砕いてやるのだ。

「着いてこい」
雪人は不遜な仕草で顎をしゃくると、返事も待たず、波打ち際のほうへと歩き出した。

早速、勝負か。
受けて立つ!

気合い凛凛、黙して雪人の後に続く。
真剣勝負に言葉など不要なのだ。

「座れ」
雪人も言葉短かだ。
波打ち際間近の乾いた砂を指し示し、自分もどかりと座り込んだ。

スカートの裾に気を配りながら、雪人の隣に座る。

すると、雪人が次に下した指示はこうだ。

「聞け」

意味が分からない。

「ちょっと待った。
聞けって何を?
俺の心の歌を聞けとかはやめてね」
たまらずツッコんだ。

「阿呆か!
違うわ!
誰がするか、そんなサムい真似!
いいから黙って耳を澄ませろ。
おら、特に波音の合間に集中しろ」
雪人がいらいらと波を指さした。

「分かったわよ」
不承不承、波間に耳を澄ませ、息をのんだ。

「なに、これ」
波間から、美しい音色が聞こえる。
きらきらと輝く音が。

それは、鈴の音よりもささやかで、もっとずっと澄んでいた。
五月の微風みたいに涼やかだ。
それでいて、まるで、ごく小さな火花が散るように、ちりちり、ちりちりと、一つ一つの音が弾けている。

「・・綺麗・・」
零れ出た溜息が震える。

雪人は満足げに微笑んだ。
月光を受けて銀色にきらめく波打ち際を指さした。
「よく見てみろよ。
珊瑚がたくさん打ち上げられてるだろ?

手のひらよりも小さな珊瑚は、波に煽られて、砂の上で踊るんだ。
そうやって珊瑚同士が触れ合って、あんな風に鳴ってるんだ。
波が引いていく時が、一番綺麗だぞ」

言われて、さらによく耳を澄ませる。
確かに、波が珊瑚をさっと撫でて海に帰っていく時に、きらきらと珊瑚が鳴っていた。

「なんだか珊瑚が歌ってるみたいだね」
「珊瑚が歌う、か。
良いな、その言い方」
さやかな歌声を遮らないよう、小さく囁くと、雪人もちゃんと耳元で囁き返してくれた。

「珊瑚の歌って、月夜にしかきこえないの?」

「いいや、昼間でも聞こえるぜ」

「じゃあ、なんで夜に連れてきたの?」

「月明かりの下で聞く音色が、一番綺麗だと思ったからだ。
美羽にはこの島で、一番綺麗なものを見せて、聞かせてやりたいからな」
雪人は得意げに胸を張った。

これは、ぎゃふんと言ってもいいかもしれない。
ロマンチック勝負は、雪人の優勢勝ちだ。
とても悔しいが。

「相手が雪人じゃなくって、恋人だったら、もっと素敵だったかな」
「はあ?なんだよ、それ・・」
悔し紛れに憎まれ口を叩くと、雪人は瞬く間にふてくされて、砂浜に寝っ転がった。

「あら?雪人、怒っちゃった?」
豪快な大の字のわき腹を突っつく。

「俺ら今は恋人契約中だろう。
コンセプトを根底から覆すような発言は控えろよ」
ぶくっと膨らんだ雪人の頬に、月影がまあるい輪を描いた。
見事なふくれっ面だ。
ぶっさいくだけど、可愛くて愛おしい。

「嘘嘘。ゴメン。
からかっただけだってば。
珊瑚の歌、本当に素敵よ。
想像以上にロマンチックだわ。
ありがと、雪人。

君と聞けて嬉しい。
ううん、君と聞けたから、嬉しいよ」

珊瑚の歌は、綺麗なだけじゃなくて、不思議な効力もあるみたいだ。
するすると、素直な気持ちが口をついて出た。

「・・そうかよ」
雪人ときたら、今度はぷいっと横を向いてしまった。
乱暴な口調だが、まんざらでもないらしい。
ここから見える耳朶が真っ赤だ。

「おや、まあ。
もしかして照れておいでですか、雪人さん」
つむつむ。
また脇腹を突っついてからかう。

「うっせぇ!
もう話しかけるな!」
怒鳴り声が返ってきて、耳朶の赤が一層濃くなった。

耳朶の赤は、私の胸の奥をきゅんと痺れさせた。

「ねえ、雪人。
ハグしよっか」
つむつむ。
またまた脇腹を突っついた。

「はい?」
寝転がっていた雪人が、砂をまき散らしながら跳ね起きた。
黒々とした目はまん丸に見開かれていた。
長い睫毛の先が、瞼と眉毛の間にくっついて見えるくらいだ。

「なんで、そんなにびっくりするのよ。
こういう時、恋人だったらハグの一つもするもんでしょうが」

「・・触っても泣かないか?」
くっきりと切れ込んだ二重が、危ぶむように何度も瞬いた。

「はい?
何で泣かなきゃいけないのよ」

「だってお前、ハグしたら時、泣いたじゃねえか。
それも、めちゃくそ泣いた。
俺に触られんのが、美羽は泣くほど怖いんだって、ショックだった。

だから、俺、美羽に触りたい時でも、触んないようにしてたのによ。

今になってハグしようとかって・・。
なんだよ、お前、訳分かんねぇよ」
雪人はどっと脱力して、ぐったりと膝を抱え、額を膝と膝の間に埋めた。
脱力した顔を見られたくないようだ。

「なに、それ・・」
今度は私が目を剥く番だった。
雪人が私に触れない理由が、こんなに可愛らしいものだったなんて。
ものっすごく意外だ。
普段は、俺様何様雪人様のくせして。

「馬鹿ね。
あれは君が面会二回目で、かつ無許可でキスなんかするからでしょうが。
あんなの、誰だって泣くわ。

でも、今は状況も心境もだいぶ違うでしょ。
ちょこっと触られたくらいじゃ、私、泣かないわよ」
艶々と月光を跳ね返すつむじに、優しく語りかけた。

「そっか。
そうだったのか」
自分の膝を抱えていた雪人の腕が緩んだ。
隙間から、小さく安堵の息が漏れてきた。

「・・じゃあさ。
今、抱きしめてもいい?」
むくりと頭が起きあがり、上目遣いが顔を出した。

「どうぞ」
雪人に向かって両腕を広げてみせた。

「・・美羽」
すんなりと長い手が、一直線に私に向かって延びてきた。
少し体温の低い手が、しんなりと私を抱きしめる。

「美羽・・美羽・・。
ありがとう、美羽。
美羽と出会えて、本当によかった」
雪人が何度も名前を呼んで、私のうなじの後れ毛を揺らした。
濃く香る雪人の香りが、胸の奥にまで染み渡った。

「・・雪人」
名前を呼び返すと、抱きしめる腕の力がやんわりと強くなったから、独りでに涙が滲んでしまった。

触られても泣かないって言ったのに、泣いちゃった。
だから、これは雪人には内緒。

悲しくない涙の膜を通して、足下に落ちる影がぼやけて見えた。
蒼い影は、ぴったりと隙間なく重なっている。

雪人の背中越しに蒼い影を見つめ、私は一人ほくそ笑んだ。

やっぱり思った通りだ。

雪人の影と一緒の方が、影の蒼は深く甘い。

とても、とても、甘い。