2【麦わら帽子越しの君】
「そろそろ約束に時間だわ。
急がなくっちゃ」
半袖半パン姿の私は、慌ただしくビーチサンダルを引っかけた。
それから、麦わら帽子を被る。
帽子は、よしオバアから借りた特大サイズだ。
首には日焼け防止のフェイスタオルをひっさげるのを忘れない。
準備は万端である。
「よっし。今日も行きますか」
ヒビの入った玄関の引き戸を開けて、空を見上げる。
黄金色の太陽が、燦々と降り注いでいる。
蒼穹はどこまでも広く、雲一つ浮かんでいない。
今日も一日、良い天気になりそうだ。
「美羽さん、今日はどこ行くのか?」
洗濯中のよしオバアが、のんびりと声を投げかけた。
「港で釣りをするんだ。
ルアーでタマン(鯛の一種)を狙うって言ってた」
「あれ、それじゃあ今晩もクワッチー(ご馳走)かねぇ」
「任せてっ。いっぱい釣ってくる。
じゃあ、行ってきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい。
気をつけてね。
雪人くんにもよろしくね」
ほくほく笑顔のよしオバアに、勇ましく手を振って、私は雪人と待ち合わせている鳳凰木へと駆けだした。
なし崩し的な始まりだったが、奇妙な恋人契約は順調に履行中だ。
・・いや、順調に、というにはいささか語弊がある。
私と雪人の間に、齟齬が生じているわけでは決してない。
意外だが、じつに円滑な間柄だ。
今履いているビーチサンダルだって、色違いのお揃いだ。
私が赤で、雪人が青である。
わざわざ島の売店に出向いて、二人して選んだのだ。
それくらいには仲がいい。
ただ、甘い甘い恋人同士というよりも、親友とか相棒といった呼び方がよく似合う。
・・ような気がする。
「だいたい、雪人が張り切って計画するデートが、設定からしておかしいのよね」
ぶつぶつと一人反省会を始めると、足下ではペッタペッタとビーチサンダルが相づちを打った。
「今までに、デートと称して出かけたのが・・。
えっと、釣りでしょ?
それから、畑の収穫作業のお手伝いに山菜採り。あと、磯狩りと潮干狩りか。
う〜ん、これじゃデートって言うより、食料調達だわ。
もしくは学校の課外活動よ。
健全すぎるにもほどがある・・」
おかげで、契約開始当初は、私と雪人が恋仲なのではないかと疑っていたよしオバアも、今じゃすっかり警戒解除だ。
笑顔で毎日私を送り出し、わくわくとお土産を待つテイタラクである。
「まあ、楽しいんだけどさ。
食料持って帰れば、よしオバアは喜ぶしさ。
畑仕事の手伝いが縁で、地元の人とも仲良くなれたけどさ。
でも、なぁーんかねぇ。
女子として見られてないって言うか、ただの狩り仲間に成り下がってるっていうか・・」
影を選んで坂を上る間も、愚痴めいた独り言が零れ出る。
え〜、当たり前であるが、雪人が「恋人の挨拶」としてぶちかましたキスも、あれ以来一切ない。
欠片もない。
気配さえもない。
予感だってないね。
ボディータッチはまれになるが、それも大物の魚を釣り上げた時とか、珍しい山菜をゲットした時に、ハイタッチするくらいだ。
なんだか、それだけじゃ寂しくて・・。
「いやいやいいや、ちょっと待て私!
違うでしょ!
別にさ!
アレコレしたいわけじゃないのよ!
それはない、絶対!
ただ、全くないってのも、女子としてどうかって思うだけよ!
そうよ!
これは個人的な感情の問題ではなく、女としてのプライドの問題よ!」
自分の心が甘ったるく日和るのが耐えられなくて、空に向かって大声で言い訳した。
勢い余って振り回した腕が、麦わら帽子を凪払う。
特大帽子はひょうと弧を描いて、鳳凰木の方へとすっ飛んでいった。
「おっと!」
燃える花の緋色を割り裂いて、すんなりとした長身が飛び上がった。
青いビーチサンダルがひらめく。
しなる腕が、麦わら帽子をキャッチした。
私を待つ雪人だ。
「雄叫びが聞こえると思ったら、やっぱり美羽か」
麦わら帽子をくるくると弄びながら、雪人が私に笑いかける。
そして、私はつかの間言葉を失う。
広がる蒼穹、
燃える緋色の花、
遠くに見えるあおい焔を宿した海、
安っぽい青のビーチサンダル、
そして、全ての色彩のただ中に佇む雪人。
まるで、情熱的な画家が、ありったけの感情をつぎ込んで描き上げた絵画のようだ。
私にとって、慈しむべき光景だ。
その全てが私の中に飛び込んできて、胸の奥をじんと痺れさせるのだから。
魂に焼き付くっていうのは、きっとこう言うことなのだろう。
だから、この光景を、私は一生忘れないと思う。
だかしかし!
心震える尊い境地を、雪人は遠慮なくぶち壊すのだ。
あぁ、いつだってそうだ。
「お前さ、なんでそんなに雄叫ぶんだ?
欲求不満かよ」
雪人が胡乱げに片目を眇めてみせた。
はい、今日も全く空気を読まない毒舌が炸裂である。
じんと痺れた胸の奥は、あっという間に通常運転再開だ。
この毒舌さえなければ、雪人って文句なしのイケメンなのに。
本当に惜しいわ。
残念なイケメンくんを、同情を込めてしみじみと眺めた。
「なに、じーっとこっち見てんだよ。
あ、もしかしたら、今現在も俺にムラムラしてんのか?」
「違うわい!」
自意識過剰な軽口に、いつものように噛みついた。
腹が立つったらありゃしない。
「はいはい。違う違う。
ほら、そんなことはどうでも良いから、帽子はしっかり被っとけ。
でないと、また熱中症になるぞ。
お前がぶっ倒れるとこなんか、俺はもう見くないからな」
お小言ついでに、脱げてしまった麦わら帽子を被せられた。
すんなりとした指先が離れる間際、麦わら帽子越しに、そっと私の頭を撫でていった。
意地の悪い口調とは、正反対の手つきだ。
「・・ども」
たったこれだけで機嫌を直してしまう私は、とってもチョロい。
「ほら、行くぞ」
残念なイケメンのくせに、うっとりするほど優しく笑う雪人は、これ以上ないくらいズルい。
「そろそろ約束に時間だわ。
急がなくっちゃ」
半袖半パン姿の私は、慌ただしくビーチサンダルを引っかけた。
それから、麦わら帽子を被る。
帽子は、よしオバアから借りた特大サイズだ。
首には日焼け防止のフェイスタオルをひっさげるのを忘れない。
準備は万端である。
「よっし。今日も行きますか」
ヒビの入った玄関の引き戸を開けて、空を見上げる。
黄金色の太陽が、燦々と降り注いでいる。
蒼穹はどこまでも広く、雲一つ浮かんでいない。
今日も一日、良い天気になりそうだ。
「美羽さん、今日はどこ行くのか?」
洗濯中のよしオバアが、のんびりと声を投げかけた。
「港で釣りをするんだ。
ルアーでタマン(鯛の一種)を狙うって言ってた」
「あれ、それじゃあ今晩もクワッチー(ご馳走)かねぇ」
「任せてっ。いっぱい釣ってくる。
じゃあ、行ってきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい。
気をつけてね。
雪人くんにもよろしくね」
ほくほく笑顔のよしオバアに、勇ましく手を振って、私は雪人と待ち合わせている鳳凰木へと駆けだした。
なし崩し的な始まりだったが、奇妙な恋人契約は順調に履行中だ。
・・いや、順調に、というにはいささか語弊がある。
私と雪人の間に、齟齬が生じているわけでは決してない。
意外だが、じつに円滑な間柄だ。
今履いているビーチサンダルだって、色違いのお揃いだ。
私が赤で、雪人が青である。
わざわざ島の売店に出向いて、二人して選んだのだ。
それくらいには仲がいい。
ただ、甘い甘い恋人同士というよりも、親友とか相棒といった呼び方がよく似合う。
・・ような気がする。
「だいたい、雪人が張り切って計画するデートが、設定からしておかしいのよね」
ぶつぶつと一人反省会を始めると、足下ではペッタペッタとビーチサンダルが相づちを打った。
「今までに、デートと称して出かけたのが・・。
えっと、釣りでしょ?
それから、畑の収穫作業のお手伝いに山菜採り。あと、磯狩りと潮干狩りか。
う〜ん、これじゃデートって言うより、食料調達だわ。
もしくは学校の課外活動よ。
健全すぎるにもほどがある・・」
おかげで、契約開始当初は、私と雪人が恋仲なのではないかと疑っていたよしオバアも、今じゃすっかり警戒解除だ。
笑顔で毎日私を送り出し、わくわくとお土産を待つテイタラクである。
「まあ、楽しいんだけどさ。
食料持って帰れば、よしオバアは喜ぶしさ。
畑仕事の手伝いが縁で、地元の人とも仲良くなれたけどさ。
でも、なぁーんかねぇ。
女子として見られてないって言うか、ただの狩り仲間に成り下がってるっていうか・・」
影を選んで坂を上る間も、愚痴めいた独り言が零れ出る。
え〜、当たり前であるが、雪人が「恋人の挨拶」としてぶちかましたキスも、あれ以来一切ない。
欠片もない。
気配さえもない。
予感だってないね。
ボディータッチはまれになるが、それも大物の魚を釣り上げた時とか、珍しい山菜をゲットした時に、ハイタッチするくらいだ。
なんだか、それだけじゃ寂しくて・・。
「いやいやいいや、ちょっと待て私!
違うでしょ!
別にさ!
アレコレしたいわけじゃないのよ!
それはない、絶対!
ただ、全くないってのも、女子としてどうかって思うだけよ!
そうよ!
これは個人的な感情の問題ではなく、女としてのプライドの問題よ!」
自分の心が甘ったるく日和るのが耐えられなくて、空に向かって大声で言い訳した。
勢い余って振り回した腕が、麦わら帽子を凪払う。
特大帽子はひょうと弧を描いて、鳳凰木の方へとすっ飛んでいった。
「おっと!」
燃える花の緋色を割り裂いて、すんなりとした長身が飛び上がった。
青いビーチサンダルがひらめく。
しなる腕が、麦わら帽子をキャッチした。
私を待つ雪人だ。
「雄叫びが聞こえると思ったら、やっぱり美羽か」
麦わら帽子をくるくると弄びながら、雪人が私に笑いかける。
そして、私はつかの間言葉を失う。
広がる蒼穹、
燃える緋色の花、
遠くに見えるあおい焔を宿した海、
安っぽい青のビーチサンダル、
そして、全ての色彩のただ中に佇む雪人。
まるで、情熱的な画家が、ありったけの感情をつぎ込んで描き上げた絵画のようだ。
私にとって、慈しむべき光景だ。
その全てが私の中に飛び込んできて、胸の奥をじんと痺れさせるのだから。
魂に焼き付くっていうのは、きっとこう言うことなのだろう。
だから、この光景を、私は一生忘れないと思う。
だかしかし!
心震える尊い境地を、雪人は遠慮なくぶち壊すのだ。
あぁ、いつだってそうだ。
「お前さ、なんでそんなに雄叫ぶんだ?
欲求不満かよ」
雪人が胡乱げに片目を眇めてみせた。
はい、今日も全く空気を読まない毒舌が炸裂である。
じんと痺れた胸の奥は、あっという間に通常運転再開だ。
この毒舌さえなければ、雪人って文句なしのイケメンなのに。
本当に惜しいわ。
残念なイケメンくんを、同情を込めてしみじみと眺めた。
「なに、じーっとこっち見てんだよ。
あ、もしかしたら、今現在も俺にムラムラしてんのか?」
「違うわい!」
自意識過剰な軽口に、いつものように噛みついた。
腹が立つったらありゃしない。
「はいはい。違う違う。
ほら、そんなことはどうでも良いから、帽子はしっかり被っとけ。
でないと、また熱中症になるぞ。
お前がぶっ倒れるとこなんか、俺はもう見くないからな」
お小言ついでに、脱げてしまった麦わら帽子を被せられた。
すんなりとした指先が離れる間際、麦わら帽子越しに、そっと私の頭を撫でていった。
意地の悪い口調とは、正反対の手つきだ。
「・・ども」
たったこれだけで機嫌を直してしまう私は、とってもチョロい。
「ほら、行くぞ」
残念なイケメンのくせに、うっとりするほど優しく笑う雪人は、これ以上ないくらいズルい。
