電車が近鉄難波の駅に着くころには、さくらは話せるくらいにはなってきた。

「大丈夫かい?」

「うん、大丈夫。なんかちょっとショック受けたみたい。」

「激しかったからね。ああいうこともあるから、選手は日ごろからすごく鍛えているんだけど、それでも、怪我は絶えないスポーツだね。男らしい競技だけどね。」

「うん、試合自体は面白かったの。ああゆうマッチョな男の人、好みなのよね、知ってるでしょ。それに、ごつい男どもがきちんとルールを決めてガチで戦う、みたいなの、何か根源的なところでね、本能的に女性は好きなものよ。ただ、最後のシーンが……」

「すごかったからね。」

「うん、ちょっとびっくりしたんだと思う。よくわからないけど、足がすくむ、みたいになってしまって、で、なぜか涙が止まらなくって……」

「何か、あったかいものでも食べようか?」

さくらは、ちょっと考えたけれど、

「うーん、今日は家にこのまま帰るね。ごめんなさい。あなたといるのが嫌になったとかじゃないから、そういう風には気にしないで。ただ、今日はもう、家に帰って、お風呂にでも入って、それでもう、寝ちゃったほうがいいような気がするのよ。」

「そうか、うーん、試合も神戸、結局負けちゃったし、残念だけど、さくらの体調のほうが大事だからね。そうしよう。芦屋の家まで、送るよ。」

「ありがとう。ごめんなさい。」

「いや、家に早く帰って、ゆっくりして、で、ぐっすり眠ってね。好きだよ、さくら」

といって、軽くほっぺにキスした。さくらは、なんなんだろう、あたし今日はおかしいわね?って思いながら、難波の街を地下鉄の心斎橋駅を目指して、二人で歩いた。地下鉄の梅田駅まで、数駅、さくらは、ユウジの方に頭をもたれかけさせて、目をつぶったまま、座席に並んで座っていた。ユウジは心配そうにしながら、手を握り、じっと前を見て、何かを考えているようだった。

芦屋の駅から、さくらの家のほうに向かって歩きながら、

「ごめんよ、さくら。激しいのは、なんとなく合わないみたいだったね。」

「いえ、いつもはこんなにはならないんだけどな。なんか変だったわ。こちらこそごめんなさい。せっかくいろいろ考えてくれていたみたいだったのに。」

「いや、そんなことはいいんだ。それより、大丈夫?」

「うん、もう、だいぶ良くなってきたみたい。普通に歩けてるでしょ?」

「まだ、ちょっと、ふらつき気味だよ。注意して。」

「そうなの?自分では、わからなくって……」

と言っているうちに彼女の自宅が見えてきた。

「明日、元気になったら、電話するから」

「うん、回復を祈りながら待ってる」

「じゃあ、今日は本当にごめんなさい。」

「ううん、それより、体をいたわるんだよ。」

「ありがとう、おやすみなさい。」

「おやすみ」

さくらが自宅のドアを開けて中に消え、バタンと音を立てて、そのドアが閉まってしまうまで、ユウジはその後姿を眺めていた。神戸の夜景デート以来、何度も会って、いろいろなところに行ってきたし、ハイキングのようなもっと体力的にきついこともしたこともあった。「こんな風になるあいつは初めて見たな。」と思いつつ、ユウジは何か、引っかかるものを感じていた。

「さくら、元気になって、また、いろいろ遊びに行こうな。お前が一番、好きだよ」

とつぶやき、駅のほうに向けて、来た道を戻り始めた。

 その後、ユウジとさくらはデートを重ね、お互いをよりよく知るための過程を着実に踏んでいった。ラグビー場でのことは、ユウジの心に、卸したての真っ白のシャツに万年筆のインキが飛んでしまったときのような黒いシミのようなものを残していたが、それも時間とともに薄く広がって気にならなくなっていった。そして、それはそれとして、きちんと手順を踏み、ゆっくりと親しくなっていった。さくらは、もともとしっかりとした体躯の男性が好みだった上に、彼には清潔感もあり、それに踏み込んでほしくない、いわば彼女の危険地帯のようなところに、せっかちに飛び込んで暴れまわるような乱暴なところがなく、信頼感と好意を深めていくことにつながっていった。月に3,4度のデートを重ねて、さらに1年ほどの月日が流れていった。その間、ユウジは准教授に昇進し、さくらはそのお祝いをしてあげたりした。