その日は久しぶりによく晴れた満月だった。

アンナと別れたと言って啓介が帰ってから随分と経った。あの時の啓介の顔には不幸の影がちらつき、俺はもう少しで自分の予見する未来を啓介に言ってしまいそうだった。

だが、俺のチカラなんぞ、俺があると思ってるだけかもしれない。
昔のことだって、単なる偶然かもしれないじゃないか。

あれから、啓介はどうしたろうか。アンナはどうしただろうか。

あのあと、何度も満月の夜を1人で過ごしていた。


よく晴れた空に満月が浮かぶ今夜。俺は1人だったが、啓介が来た時に座る河原に座って、1人酒を飲んでいた。

何かあったのではないか、そんな思いがこびりついて取れない。満月の夜は余計に、その感覚が研ぎ澄まされる。

不安を取り除くには酒で麻痺させるしかなかった。
啓介はいつもビールを買ってきてくれるが、俺は日本酒が好きだ。今日は、なけなしの金をはたいて、パック酒を買った。

酔いも混ざって、川面にゆれる満月の形がさらに歪む。ぐにゃりとおおきく歪んだその時に、川下から声が聞こえた。

野村さん。

酔って言うことを聞かない体をやっとこさ声の方に向ける。声をかけてきたのは啓介だった。

野村さん、今日は1人で飲んでるんですか?

酔いのせいか。いや、きっとそうじゃない。啓介の顔ははつらつとし、不幸は去ったかにみえた。ぐにゃりと歪んだ月とはうってかわって、啓介の顔は歪まない。

あんちゃん、久しぶりじゃねぇか。アンナちゃんとは上手くいったのか。

俺がそう答えると、啓介は少し照れたようにはにかんで、少し体を引いた。啓介の後ろには華奢で、清楚という言葉がぴったりの女性がいて、こちらをみて微笑んでいた。

啓介と同じように、ほんの少し照れたように笑っている。

幸せそうな顔に、思わず笑みがこぼれた。

えらい、べっぴんさんやないか。え?あんちゃん?

啓介と顔をすこしみあわせたあと、女性は鈴が鳴るような声で俺に自己紹介した。

はじめまして。アンナです。けいちゃんがお世話になってます。野村さんのお話はずっと伺っていて、一度お会いしてみたかったんです。

いやいや、俺はあんちゃんにビールおごってもらってただけだ。世話なんてしてねぇ。

ほろ酔い気分が気分をかきたてた。
幸せそうな2人。俺のチカラは俺の杞憂だった。よかった。本当に、よかった。

啓介によれば、2人は一度は別れたが、そのあと寄りを戻したらしい。来春、結婚するのだと言っていた。
俺に結婚の報告に来たかったらしい。かわいいやつだ。

少し話をしたら、2人はぺこりと俺に頭をさげて、川上の方へと去っていった。2人仲良く並んで歩く。もちろん手はつないで。

俺は2人の後ろ姿を見ながら、妻のことを思い出していた。

妻と2人で手をつないで歩いた記憶を思い出し、幸せに浸りながら、啓介とアンナを見送る。

ぼんやりと2人を眺めていたら、ふと、2人が歩いていったその跡が浮かび上がってきた。

いや、2人の足跡じゃない。1人。アンナの足跡だ。
足跡などつくはずもないのに、その跡は紅く、血のような色だった。

酔いがさぁっとひいていく。
引いていったのに、空の満月がぐにゃりと歪む。
血の足跡から目をそらせない。
やがて、その紅い紅い足跡の奥から1人の若い女性の苦悩に歪んだ顔が浮かんでくる。

俺の知らない、若い女。苦しみに顔が歪んでなければ、愛嬌があると言われただろう。
やがてその顔も満月と同じようにぐにゃりと歪み、また紅い血溜まりの奥へと消えていった。

俺のチカラは、思い込みだ。
そう、思いたい。