彼は金木犀の香りがした。









6月、灰色の空が湿った重い空気が私の体を地面へ押し付ける。

「あー。まだ火曜日か。憂鬱。空まで憂鬱。めんどくさいねえ。」

「も〜菜穂ちゃんってば朝からずっと同じ事言ってるよ〜?」

幼馴染の由貴が眉間にシワを寄せながら呆れ顔でそんな事を言ってくる。

「だってさあ〜、私は由貴と違って学校に楽しみなんてないもん。毎日美術部行ってあんなにすごい絵を描ける由貴とは違うもん。」

頬に少し空気をためて私は口を尖らせる。

「またそんな事言って〜。私は菜穂ちゃんに憧れてるところ、いっぱいあるけどなぁ。とりあえず!もうお昼なんだし、午後の授業頑張ればすぐ帰れるよ〜。」

少し頬を赤くした由貴を横目に私は歩きながら灰色の空を眺めていた。

「はいはい、頑張りますよ〜。」

ふう、と溜息をつきまっすぐに前を見直した。

その時、色素の薄い茶色の髪をした長身の男の子が岩田先生とこちらに向かってくるのが見えた。

誰だろう。背が小さい岩田先生と歩くと余計に大きく見える。制服も違うみたいだし、転校生かな…。そんな事を考えていると隣にいた由貴も同じ事を思っていたようで、「ねえねえ、菜穂ちゃん。あれ誰かな?制服違うね。転校生?なんだか雰囲気ある人だね。」とかなんとか色々話している。

わたしはそんな事を聞きながらぼんやりと頷き、なぜか彼に目が惹きつけられてるように離せなくなった。
距離はどんどん縮まっていき近づいてくる。
私は穏やかで静かな波のような期待を胸に、すれ違うのを待った。

彼の瞳が一瞬私の目を捉えた。

そして男の子にしては華奢な肩が、わたしの右横を通り過ぎる。


彼から生み出された風に乗って、群青色の空から星屑を集めて瓶に閉じ込めたような匂いが、私の体をくすぐった。

「……菜穂ちゃん、すごく綺麗な人だったね。しかも良い匂い。綺麗な人って匂いまで良いんだねぇ。でもなんの匂いか分かんなかったなぁ。菜穂ちゃん、分かった?」

「…………金木犀の香りだよ。」

彼の全身から放たれていた金木犀の香りが、頭から出て行こうとしない。



私は彼の香りとあの茶色い瞳を忘れる事ができなかった。