「お兄ちゃん、いつもより歩くの早くない?」

改札を抜けた後、家路に向かう足取りがどこか急いでいるように感じられた。
一緒に歩くときは歩幅や歩調を合わせてくれるから違和感を感じることなんてない。

「早く家に帰ろう」

改める気はないらしい。
黙って付いていくしかなかった。

兄が鍵を開けて玄関に入るのに続いて中に入る。
キッチンの方から漏れる明かりと物音。母が夕食の準備をしているのか、微かに匂いもする。
リビングに入る直前で、繋いだ手がほどかれた。

「ただいま、母さん」
「ただいまー」
「お帰りなさい。あら、二人とも一緒に帰ってきたの?」

キッチンの対面カウンターから顔を上げた母が私たちを捉えた。
エプロンを着けて作っているのはサラダらしい。
この匂いは奥の鍋から漂っているみたいだった。

「駅で会ったんだ」
「今日のご飯なにー?」
「真知」

キッチンの様子を見に行こうとした瞬間、腕を引かれてつんのめりそうになる。

「…なに?」
「先に着替えよう」

掴まれた腕は動かせず、キッチンに向かうのを諦めて兄の後を追うように2階へ上がった。
そのまま正面の自室に入ろうとすると、予想通りに「真知」と呼び止められる。

「着替えようって言ったのお兄ちゃんなのに」

口だけで文句を言いつつもくるりと反転して兄の部屋に向かった。

私が部屋に踏み入れると近くに立っていた兄が扉を閉め、また腕を引いてベッドに腰かけるように促された。
隣に並んで座ると兄の冷たい手が左頬に触れる。
唇の端を擦るように撫でていたかと思うと唐突に立ち上がり、白いペーパーを手にして戻ってきた。

「どうしたの?」
「こっち向いてじっとして」

再び左隣に腰を下ろした兄は白いペーパーを口元に近付けて私の口の端を拭った。
ツン、と消毒液の匂いが鼻をつく。
除菌のウエットシートの匂いだ。

「この匂い、嫌い、なんだけど」

強くはないものの何度も同じところを拭う動作に、ウエットシートが口に入りそうで自然と眉間に皺が寄る。
口も動かしづらい。

「真知が悪いんだ」
「…どうして?」
「知り合ったばかりの人間に、顔を触らせるから」
「クリーム取ってくれただけなのに?」
「理由になってないよ。真知のこの唇に触れられたなんて不愉快だ」

拭うのには満足したのかウエットシートを反対の手に落とし、人差し指と中指で確かめるように口元に触れる。
眼鏡の奥から見つめる目は真剣だった。

「ねぇ唇乾いちゃうんだけど」

クレープを食べてからリップを塗り直していない上に除菌シートで唇を拭われている。
唇の乾燥なんて女子高生には許されない。

「塗って?」