好きだから

ふと、甲高い耳鳴りがした。

目を開こうとするけど、視界が滲んでいて、何も見えない。

軽く目を擦ると、目の周りが少し濡れている。

重い身体を起こすと、体が鈍く痛む。

下は硬い床のようだ。

たしか昨日は、ちゃんとベッドで寝たはずなのに。

ゆっくりと体を起こすと、目の前には汚れのない、真っ白な世界が広がっていた。

……ところで、私の部屋はこんな真っ白だったっけ?

…思い出せない。

もしかしたら、まだ夢の中なのかもしれない。

どう考えてもそれ以外の可能性なんてないじゃないか。

周りを見渡してみると、ここは部屋のような空間だけど、窓は無くて、家具も無い。

何も、無い。

ここはどこだろう。

もちろん見覚えはないし、奇妙だと思う。

”見覚え”に関しては自信がないけれど。

なぜなら、私には記憶が無いから。

産まれてから、数日前までの記憶。

何も覚えていないのだ。

家族も、親戚も、友達も。

私は、この世界に独り。

だから、現実の世界にいるより、この何も無い世界にいる方が、私の居場所があるのではないか。

部屋の奥に歩いていくと、そこにはシンプルなデザインの姿見が置かれていた。

私は、姿見の前に立ち、小さく深呼吸をして目を閉じた。

ゆっくり目を開くと、そこには何も映っていない。

そっと姿見に触れると、指が鏡の中に吸い込まれた。

反射的に手を引っ込めて、しゃがみこんだ。

右手を覆うように握る左手が震える。

「何も、無い」

涙が零れ、手に落ちたけれどその感覚がない。

握りしめた手の感覚も、強く強く爪がくい込むほど締め付けても、痛みを感じない。

夢の中なら当たり前の出来事でさえも、私の居場所を無くしていく。

もしかしたら、私はもう存在してなくて、幽霊にでもなったかのように思う。