祖父である沖野善三(おきのぜんぞう)は地主の息子で、もともとは商店と不動産業を細々と営んでいた。けれども、ここB市が研究学園都市として発展するとともに事業を拡大し成功をおさめたのだという。

そして、若くしてリタイヤを決めると、息子である私の伯父にさっさと会社を譲って、夢だった古書店を開いた。道楽といえば道楽。二階建ての住居兼店舗は、いわば祖父母の愛の巣だった。

祖母が亡くなってから、祖父は伯父一家と近居するためここを出た。それからは、手伝いを雇うでもなく仕事を制限しながら一人で店を続けていたのだった。

「もうこの歳だ。やってやれないことはないが、お客様に迷惑をかけることがあってもいけないし。どうだい、手伝ってみないかね? もちろん無理にとは言わないが」

昔、お祖父ちゃん子の私は店に毎日のように遊びに来ていた。あの頃ランドセルを背負っていた小学生が、二十五歳の一歩手前というのだから。祖父も相応に歳を重ねているのだ。

「私でよければ。ぜひ手伝わせて」

このときは、バイトを引き受けただけのつもりだった。何か少しでも役に立てたらと、そう思っただけ。それがいつしか、店を半分任されるようになっていたのだから。人生ってわからない。

「その少年にとって、この店はきっと安心できる居場所なんだろうね」

羽鳥さんはしみじみ言うと、冷たい緑茶に口をつけた。

「……ならいいんですけど」

「ここは本当に居心地がいいから」

居心地のよい店だと言ってもらえると素直に嬉しい。「なんとなく立ち寄りたくなる店」というのが祖父の店づくりの基本だから。でも――。

(あの子、学校には居場所がないってことだよね)

彼の事情を推し量ると胸が痛む。味方がいない孤独感。窒息しそうな圧迫感と閉塞感。瞬間――心の奥底にしまったはずの辛い記憶がよみがえった。

(私が弱いから。弱かったから……)

孤立無援。会社での苦しかった日々が思い起こされ、途端に鼓動が速くなる。

(落ち着かなきゃっ、落ち着いて、落ち着いて――)

「カンナさん?」
「えっ」
「大丈夫?」

はっとして顔を上げると、羽鳥さんが心配そうに見つめていた。

「だ、大丈夫です。えーと……」
「この店を任されたのがカンナさんでよかった」
「え?」

はてなと首を傾げると、羽鳥さんがふわりと笑う。

「なんか嬉しいなぁと思ってさ。その少年に居場所を提供してあげたいっていうカンナさんの気持ちがね。うまく言えないけど、ありがたいなぁって」

(羽鳥さん……)

その笑顔が優しくて、その言葉があたたかくて。胸がぎゅっと熱くなる。

「でも、いいんでしょうか……?」

「いいんじゃないかな。まあ、親御さんが知っていてくれたら安心というのはあるけれど。でも、街をふらふらするよりずっと安全でしょ」

「それはもちろん」

学校に行けないとして家から出るということは、家にも居づらい事情があるのかもしれない。

「しばらく見守ろうという考えに僕も賛成だよ。状況はどう変わるかわからないけど、今は彼にとってここは救いになっているのかもしれないし」

「はい」

「僕も会ってみたいな、その少年に。スヌーピーのTシャツを着てくればいい?」

「さあ、どうでしょうねぇ」

羽鳥さんと話していると心がほわんと軽くなる。

「話したら元気出てきました。ありがとうございます」

「それはよかった。僕も冷たくて美味しいお茶を飲んで生き返ったよ」

「砂漠の旅人みたいですね」

「それ、なんかカッコいいなぁ」

古い書物が醸し出す独特な紙の匂い。店を愛して下さるお客さんとの和やかな時間。ここで働くことで癒されながら、私は今を生きている。

明日また、彼はここへ来るだろうか? 土日に顔を見せたことはないので、明日会えなかったらまた来週かな。

(お店、ちゃんと時間通りに開けるから――)