「おい」
凄みを利かせた声で、佐久間は俺を引き止めた。
ついでに、腕も掴まれていた。
その乱暴な力加減は、容赦なく俺の怒りに火を点けた。
「なんだよ」
「ぶつかっといてシカトか?」
更には、俺の肩を荒々しく突き飛ばした。
その拍子に、肩に下げていた鞄がどさっと廊下に落ちた。
その鞄から佐久間に視線を移すと、俺は言ってやった。
「えらく、安っぽい言いがかりをつけるんだな」
不思議と、口角がつり上がるのを感じた。
それを見た、佐久間の顔色は一変した。
「湿気た面したおまえには、これくらいがちょうどいいだろうが、よ」
最後の言葉を聞き終えるのとほぼ同時に、とてつもなく強い衝撃が俺を襲った。
思いの外、背後には壁が迫っていたため、俺は倒れずに済んだ。
だが、壁に背中を強打し、ずきずきと鋭い痛みと鉄の匂いが、口全体に広がった。
「なに、すんだよ」
予想外の激痛に、口が上手く回らなかった。
そのたどたどしい言い方には、まるで迫力がなかった。
せめて睨み付けてやろうと目を向けたが、視界はひどくぼんやりとしていた。
どうやら、殴られたはずみに、眼鏡がふっ飛んでしまったようだった。
「はっ。おまえ、眼鏡ない方がまだ見れたもんじゃねえか。俺に感謝しろよな」
鼻で笑いながら俺を侮辱する言葉を吐き捨てると、佐久間は眼鏡を無惨にも踏みつけた。
分厚かったレンズは、跡形もなく砕けた。
頭に血が上ぼるに伴い、傷口からもどくどくと血が溢れ出した。
俺はそれを吐き出すと、口元を拭った。
「はあ……ダサいな」
俺は小さく溢した。
「はっ。おまえ、漸く気が付いたのか。てめえのダサさに」
「なに、言ってんだ? おまえのことだよ。佐久間」
佐久間が、屈辱に顔を歪めるのを俺は辛うじて捉えた。
「もう一遍、言ってみろよ。今すぐ、ぼこぼこにしてやるからよ!」
更にどすの利いた声で、佐久間は俺の胸ぐらを掴み上げると、壁へと押し付けた。
ぎりぎりと歯軋りが聞こえてきそうな形相だった。
「和久井の分際で、なめたこと言ってんなよ! てめえの立場がまだわかんねえのか!
金輪際、美羽に関わるな。次、あんな噂が流れたらおまえの最期だと思え」
朦朧とし始めた意識の中で、俺はやはりと思った。
佐久間がおかしな言いがかりをつけてきた理由は、やはり姫野とのあの噂のせいだった。
いつか因縁をつけてくるだろうとは予想していたが、まさか今日だったとは。
心底、ついていなかった。
俺は何だかおかしくなって、吹き出した。
「なんだ、おまえ。殴られて気でも触れたか」
「いいや。滑稽だなあと思って」
佐久間の瞼が、ぴくりと反応した。
「聞こえなかったか? おまえみたいな奴が、俺と姫野の根も葉もない噂で、手玉に取られている姿が滑稽だって言ってんだよ」
次こそは、ばか正直なストレートを避け切れると思ったが、少し遅かった。
距離が思いの外、近かったからだ。
俺は先程殴られた側の頬骨に、佐久間の拳を食らった。
避けなかったことを思うと、少しぞっとした。
佐久間は明らかに、顔面のど真ん中を狙ってきたからだった。
気を抜いたのも束の間で、次に俺は鳩尾(みぞおち)に衝撃を食らっていた。
俺が避けたことによって、佐久間の怒りを更に増幅させたようだった。
腹を抱え、踞るのを何とかして堪えると、俺は渾身の力を振り絞って、佐久間の胸ぐらを掴んだ。
そして、壁へと押し返した。
一見、形勢は逆転したかのように思われた。
しかし、俺の狙いはそれではなかった。
「見えるか」
今にも飛びかかりそうだった佐久間が、たちどころに目を見張った。
先程までいた俺の位置、つまり今いる佐久間の位置からは、教室にいる姫野の姿がよく見えた。
だから、彼女が悲痛に顔を崩し、恐らく涙していることも分かるはずだった。
「さっきも言っただろ。あれは根も葉もない噂だって。
こんな俺に因縁つけたくなるほど惚れてるなら、下らない噂より姫野を信じろよ!
こんなこと……俺はもう二度と御免だ」
佐久間を掴む腕も疲れてきたため、俺は砕かれた眼鏡の欠片を拾うとそこを立ち去った。
いつしか、周りにはギャラリーが出来上がっていた。
ちょっとした有名人だな、という吉村の言葉を思い出した。
翌日から、俺のことをとやかくいう人間は消えていた。
昨日の今日だから、さすがにちらほらと視線を感じることはあったが、以前のものとは大分違って感じた。
「おい、和久井! ケガは大丈夫か? 昨日はとんだ災難だったな」
席に着くなり、吉村は身を乗り出す勢いで言った。
「ああ」
俺は、くぐもった声でそう答えるのが精一杯だった。
口内の切り傷が案外、重症だったからだ。
しかし、病院に行くには大層な気がしたし、家にあるもので手当てをしたが、絆創膏しかなかったため、傷口は丸見えで手当ての意味はまるでなかった。
滅多にないことだからかして、いやに張り切った妹が飯事感覚で湿布を貼ろうとしたが、それはさすがに俺も拒んだ。
確かに被覆面積は絆創膏よりも遥かに優れているが、そもそも顔に湿布を貼っている奴なんて、少なくとも俺は見たことがなかった。
そんな手当ての雑具合を見兼ねた吉村は言った。
「絆創膏以外に、なにもなかったのかよ。それはさすがにお粗末だぜ」
「尤もだよ」
「保健室に行けば、ガーゼくらいはあるんじゃないか?」
「いい」
「なんで?」
「絆創膏、剥がすの痛いから」
「……」
何故か、吉村は絶句していた。
「男の勲章をつけたヒーローが、情けないこと言ってんなよ」
又々、皮肉混じりのその言い方に、俺は顔をしかめた。
「冗談で言ってるんじゃないよ。昨日の和久井、まじでかっこよかった」
殴られた時はさすがにひびったけど、それでも怯まずやり返さないで、解決したのが良かったよ。
最終的には、佐久間の完敗だったしな。
と吉村は熱弁した。
何だか照れ臭かったが、気分は不思議と悪くはなかった。
寧ろ、心はすかっとしていた。
俺は喧嘩を好む質ではないが、胸の内をぶちまけたことで募りに募ったイライラを発散できた気がした。
「正直さ、佐久間がまたなにかやらかしてくるんじゃないかってひやひやしてたけど、随分と大人しくなったもんだよな」
ある時、吉村は唐突に言った。
「まあ、確かに。あの気性の荒さにしてみればそうかもな。
でも、あれだけ顰蹙と悪評を買ったんだ。そう易々と仕返しもできないんじゃないかな」
「それに比べて、和久井は一気にヒーローだもんなあ。女の子ってもんは怖いよ、まったく」
オーバーに手をひらひらとさせ、苦笑いをした。
確かに、吉村の言うことも一理あった。
あの一件以来、女子達の態度は打って変わったのだ。
それはまるで、掌を返したかのように。
例えばまあ、こんな具合にだ。
「和久井くんさあ、この前のケンカ、ちょースゴかったよね!」
「うんうん。なんていうか、まさに男の中の男って感じだったよ!」
「意外な一面を見れたよねえ。普段とギャップ、ありすぎだし!」
「わかるわかるー! 特に、佐久間を睨み付けるあの鋭い目と乱れた髪がたまんなかったよ!」
「あんたそれ、マニアックすぎ。さすがに和久井くんも引くでしょ! ねえ?」
そう、聞かれましても。
俺はもう、既に彼女達に気圧されていた。
何という豹変振りなんだ、というのが第一の感想だった。
少し前までは、俺に見向きもしなかったというのに。
俺は気付かれないよう、ため息を吐き出した。
「ヒーローはヒーローで、色々と大変だな」
吉村は言った。
「その言い方はやめてくれよ。柄じゃない」
「和久井はそうでも、周りがそうは思ってないんじゃないか」
「どういう意味だよ」
「ほうら、来た」
吉村は気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、視線を右へと投げた。
「じゃーん! 和久井くんに、プレゼントだよ」
そう言って、何の前触れもなく現れたのは、あの一件以来話すようになった女子の一人である、クラスメイトだった。
確か名前は、百瀬(ももせ)言ったっけ。
名字は気に入っているらしいが、百という漢字が気に入らないとか何とか。
桃の方がかわいいのに、と嘆いていた記憶がうっすらとある程度だ。
とにかく、あれから話す女子も格段と増えたものだから、名前と顔を覚えるのに一苦労だった。
なんせ、なかなか一致しないのだから。
俺は突如、百瀬から突き付けられた物を反射的に抱えながら尋ねた。
「これなに?」
「もう、なにって見ればわかるでしょ? 手作りクッキーだよ。
もしかして、自分の誕生日も忘れたの?」
「ああーー」
言われてから、今日が自分の誕生日だったことに気が付いた。
まさか、成人しないうちに自分の誕生日を忘れてしまうとは。
俺は、自分が少し情けなくなった。
「そのまさか、みたいだね。和久井くん」
「でも、どうして百瀬が俺の誕生日を知っているの?」
「それはねえ」
そこまで言うと、百瀬は吉村と何やらアイコンタクトを取った。
そして、にたにたしながらこう言った。
「ひ、み、つ」
「……」
「あたしにはねえ、和久井くんのことがなんでもわかっちゃうんだあ。なあんてね!
あ、それ、頑張って作ったんだから、ちゃんと食べてよね」
念を押すようにして指を差すと、彼女は軽快な足取りで去っていったのだった。
俺はプレゼントだというそのクッキーを机に置くと、吉村に向き直った。
「なあ、吉村」
「なんだよ……」
「姫野の次は、あの子か。随分とたらしになったもんだな」
「そないに怒るなって。
あんなにかわいい百瀬さんに、懇願されてみろよ。簡単には断れないぜ? しかも、誕生日くらい教えても減るもんじゃあるまいし」
やれやれ、と俺はため息を吐き出した。
「それに、こうして誕生日も祝えてもらえたわけだし。女の子の手作りクッキーなんて、羨ましい限りだよ」
「それは、個人情報を勝手に口外した吉村が言えたことじゃないけどな。でもまあ、その通りかも」
「な? 和久井もさ、満更でもないんだろ。あ、さては惚れたか?」
次元の低い吉村の冷やかしもそこそこに、俺はクッキーを鞄へと仕舞った。
正直、豹変したからといって、女子と関わるのは嫌な気分ではなかった。
寧ろ、気分転換になり、程よく俺の心を癒してくれた。
彼女達と話している間は、姫野のことを気にせずに、考えずに済んだ。
あの日、最後に見た姫野の泣き顔も、きれいさっぱり忘れられるはずだった。
あとは時間が、すべてを解決してくれるはずだった。

