俺に、青春なんて必要なかった



放課後。
姫野に頼まれていた参考書を渡そうと、彼女の座席へと向かった。
瞬時に俺の気配を感じ取った姫野は、忙しなく帰り支度をした。
それはあからさまだった。
俺は一瞬たじろいだ。
しかし、貸すと約束をしていたので思い切って声を掛けた。


「姫野、これ。言っていた参考書」


「あ、ごめん。もういいや」


目も合わさず、顔も上げず、姫野はそのまま教室をあとにしたのだった。
そして、俺は漸く気が付いた。
姫野が急いで佐久間に会いに行っていたのは、時間が惜しかった訳ではなく、俺を避けるためだったのだと。


それから、姫野と言葉を交わすことはなくなった。
正直、俺は戸惑っていた。
避けられる訳も、冷たくあしらわれる訳も分からなかったからだ。
姫野に直接、尋ねようかとも考えたが、逡巡しているうちに時間は経ちすぎた。
明確な理由こそ分からなかったが、きっかけは間違いなくあの噂だった。
あの日から、何もかもが狂い始めた。
他に上がる噂がないせいか、不愉快極まりないあの噂はまだ生き延びていた。
尾びれ背鰭を付けながら、噂は独り歩きをしているようだった。
もはや、情報源を突き止めることなど不可能な状況だった。


「みんなよくもまあ、飽きないよな」


吉村は言った。
噂が流れた当初は、さすがに興味を示していたが、こいつの中ではもう過去のものになっていた。
当然、俺もそのうちの一人だ。


「まったく、迷惑だよ。本当。毎日毎日」


「ちょっとした有名人だな」


揶揄を含めた言い方に、俺は少し頭にきた。


「所詮は他人事だろ。吉村、俺がどうにかなったら止めてくれよな」


「それ、どういう意味だよ……」


「どうもこうも、我慢にも限界があるってことだよ」


例え根も葉もなくてもただの噂だけなら、俺も気にも止めなかったはずだ。
こんなにイライラすることもなかった。
あの噂に付加してきたのは、俺への罵倒だった。
それも聞こえるように、わざとらしいパフォーマンスとともに。
内容は、ざっとこんなものだ。



俺が姫野と付き合うのはありえないだとか、不釣り合いにも程があるとか、身の程を知れだとか。
更には、姫野が迷惑していたことにも気付かないのか、と経験値の乏しい事実を責め立てることさえも、言われたりした。


どれもみな、妥当なものばかりだった。
中でも特にぐさりときたのは、不釣り合いという言葉だった。
以前、姫野と佐久間が二人でいる時に覚えた違和感は、まさにこれだと思った。
二人は、釣り合っていたのだ。
つまり、お似合いということだ。
そのことに今更ながら気付き、恥を知った。
しかし、同時に怒りも沸き起こった。


なぜ、何も知らない奴等に、ここまで罵倒されなければならないのか。
いったい、俺がいつ迷惑をかけたというのか。
身に覚えのないことまで言われて、迷惑しているのは寧ろこっちの方だというのに。


やり場のない、思いばかりが募っていった。
そんなつらい日々の中でも、俺は姫野を気に掛けていた。
もしかしたら、姫野も迷惑を被っているかもしれない、と。
けれど、その心配も日を追う毎に薄れていった。
というのも、相変わらず佐久間とよろしくしていたからだ。
俺の心配なんて、何の意味も持たなかった。
いや寧ろ、姫野は俺との接点を断ちたがっているのだから、心配される方が迷惑かもしれない。
しかし、姫野に対しては怒りよりも、漠然としたショックの方が大きかった。
恐らくそれは、裏切られたという思いからだろう。
それでも、姫野のことをまだ嫌いにはなれなかった。
いっそのこと、嫌いになった方が楽なのに、と思うことさえあった。
そうすれば、避けられることに傷付くこともないし、佐久間と楽しそうに話す姫野を見て、ショックを受けることもなくなるからだ。
嫌いになれないのはきっと、姫野の口からまだ、決定的な言葉を聞いていないからだった。
そのせいで、俺はまだ希望を捨てられないでいた。



今日は、朝からついていなかった。
忘れ物をするわ、遅刻はするわ、教師に激怒されるわ等々。
思い出すだけでも、うんざりする。
けれど、そのお陰で学校に置き去りにされた携帯の存在を、帰り道で思い出すことが出来た。
他の物ならともかく、携帯は置いて帰る訳にはいかない。
俺は、定期券を通す手前で踵を返した。
久々に放課後の静けさを目の当たりにし、俺は姫野と勉強した日を思い出した。
懐かしさと切なさが、胸いっぱいに広がった。
そして、教室を前にして俺はとことんついてないことを思い知った。
そこには姫野と佐久間、二人がいた。
誰もいない教室に、静かな空間。
いつぞやの、姫野と放課後、残って勉強した日を思い起こさせた。
それは、嫌な予感とともに聞こえてきた。



「だ、だめだよ……佐久間くん」



何かを、控え目に拒む姫野の声がした。
思わず背筋がぞくっとするような艶かしい声は、良からぬ想像を掻き立てた。
知らない間に、俺の手には拳が出来上がっていた。


「どうしてダメなんだよ」


「だって、誰か来ちゃうかもしれないし……」


「来たら、まずいのか?」


「ほら、見つかったりでもしたら」


姫野がそこまで言うと、佐久間は覆い被せるようにして言った。


「あいつは……和久井には抱き締められてもよくて、俺はダメなのかよ」


「そんな、ことは……」


「見た奴の話によると、美羽は拒まなかったそうじゃないか。少なくとも、今みたいにな」


その後の話の展開を想像すると、俺は今すぐにでもここを立ち去るべきだった。
だけど、情けないことに足はすくみ始めていて、それは叶わなかった。
少しの沈黙のあと、姫野は口を開いた。


「あれは、違うの。抱き締められたわけじゃないから」


言われてみれば、確かにそうかもしれない。
正確には手を引いてしまっただけで、抱き締めたわけではなかった。
だけど、それは佐久間が信じるだけの理由には、事足りなかった。
先程の勢いが消えた声で、佐久間は言った。


「美羽は……和久井のことが好きなのか」


その質問に、俺は度胆を抜かれた。
なぜ今、そんなことを聞く必要があるのか。
俺には到底、理解出来なかった。
ただ、質問が質問だけに、脈拍は急ピッチで増していた。
答えは初めから、一つしかないというのに。



「好きだなんて……そんなの、あるわけないよ。
その証拠に、今はもう全然話していないし、接点も何もないから。お願い、信じて――」



たった今、俺は絶望という闇に葬られた。
もはや、身体に力が入らなかった。
立っているのも、やっとだった。
姫野に対する怒りも疑問も悲しみも、すべてを覆い尽くすほどの絶望感が俺を呑み込んだ。
それから、俺は心に強く誓ったのだった。



もう……もう二度と、姫野には関わらない。
こんなに惨めで苦しい思いをするのは、もう御免だ。
やはり、俺には必要なかったんだ。
青春なんて戯事、必要なかった。



その夜、俺は強く誓った。
次の日から俺は、姫野が視界に入らないように徹底した。
趣味である、プログラミングにも没頭した。
少しさぼっていたせいもあって、勘を取り戻すのに手こずったが、時間はそう取らなかった。
吉村もあれから、不吉な噂に触れることはなくなった。
もう完全に忘れたのかとも思ったが、それが吉村の気遣いだということに、俺はすぐに気が付いた。
理由は、今まで一日一回は耳にしていた、姫野の名前を聞かなくなったからだ。
尤も、姫野の二面性を知り、もはや興味を示さなくなったのなら、また別の話だが。


「俺、図書館寄ってくから。またな、和久井」


そろそろ、受験を意識せざるを得ない時期に突入していた。
昼夜の寒暖差も開き、日陰では身震いをするようになった。
元々、厚着が苦手な俺は、マフラー一つで冬を乗り切るしかなかった。
手袋が選択肢に含まれていないのは、俺の中では厚着にカテゴリーされているからだ。
今日は、そのマフラーの毛玉が妙に気になった。
目に余るほどでかいものもあれば、明らかにむしられたようなような痕さえあった。
俺は、すぐにぴんときた。
こんな幼稚なことをする奴は、一人しかいない。

犯人は妹だ。
しかし残念ながら、俺に怒鳴るほどの時間は残されておらず、悶々としながら駅へ向かう羽目となった。
そして、マフラーのない朝はこんなにもつらいものなのか、と更に妹を恨んだ。
おまけに何故か改札は、人の山だった。


そういえば、今朝のニュースで電車が遅れているって言っていたっけ。
確か、線路が凍結して曲がったとかなんとか。


俺は、遅刻を覚悟のため息を吐いた。
そして、遅刻に付随してくるのが喧しい担任の説教だ。
特に今は受験シーズン真っ盛りだから、先公達はいつもに増してぴりぴりしている。
ついていないな、と思った。
そういうこともあり、今日の俺は虫の居所が悪かった。
気も立っていた。
だから、安く売られた喧嘩を買う、という馬鹿げたことをしてしまったのだろう。
放課後を迎え、帰宅しようと教室を出た時だった。
ドア付近に佐久間がいることを知りながらも、俺は無視を決め込んで奴の横を通りすぎた。
ちょうどその時だった。