俺は普段以上に、制服のネクタイをきつく締めた。
決して気が緩まないよう、その決意とともに。
不思議と、制服をぴしっと着こなすだけで、何だか気も引き締まった気がした。
今日は三学期と、そして高校生最後の始業式の日だ。
気持ちも新たに何にも邪魔されず、順調なスタートを切る予定だった。
なのに、天気は生憎の雨模様だった。
良い感じに上がっていた俺のテンションは、みるみる下がっていった。
いつも外れる天気予報も今日だけは当たるものだから、皮肉以外の何物でもなかった。
よりによって、なんで今日なんだろう。
僅かにいつかの不吉さを心に抱きながらも、俺は何とか無事に始業式を終えようとしていた。
その矢先だった。
トイレから教室への戻り道、俺は背後から声を掛けられた。
あまり聞き慣れない声に、不審に思いながらも振り返った。
そこには見覚えのあるような、ないような三年の女子、数人がいた。
彼女達は、見るからに負のオーラを発していた。まさに不吉そのものだった。
「ちょっと、顔かしてくれない?」
その、有無を言わさぬ物言いに雰囲気に、俺は頷くしか術がなかった。
まずい無言の中、行き先も告げられぬまま、俺は彼女達に連行された。
着いた場所は、これまた体育館の裏というリンチ(死語)にはもってこいの定番で、俺の中の恐怖は指数関数的増加を見せた。
ただ、彼女達にしめられる身に覚えはまったくなかった。
クラスも違えば、話したこともない。
こんなに顰蹙を買うことは、不可能なはず。
単に寒いということもあったが、距離を取りたいという無意識の自己防衛から、俺は腕を組んだ。
第一声を聞いたのは、そのあとすぐのことだった。
俺の、向かい側にいた女子が口を開いた。
「なんで呼ばれたのか、わからないって顔してるけど――美羽のことだよ」
その時、俺は漸く思い出した。
何となく見たことがあった気がしたのは、姫野の友達だからだった、と。
それから、第一声を発した右隣の女子が付け加えた。
「ホントは、美羽には言わないでってお願いされていたんだけど……もう、あたしら我慢できなくて」
その発言に対しての疑問が顔に出たのか“美羽がかわいそうで”と補足した。
けれど、俺は混乱し始めていた。
不明瞭なことが、突如浮上してきたからだ。
俺が発言する間もなく、彼女達は続けた。
「まずはね、単刀直入に聞くけど。
和久井くんは美羽のこと、どう思ってるの?」
何の脈絡もない質問に、俺は返答に窮した。
かといって、すぐに答えも出なかった。
だって、そんなことは今まで考えたことがなかったからだ。
言葉に行き詰まる俺に焦れったくなったのか、もうはっきりしなさいよ、と一番左端にいた女子が吐き捨てた。
「知ってると思うけど、美羽は和久井くんのことが好きなの。今もまだ思ってるの!
あたしらには大丈夫だよって、元気に笑って言うけど、いつも目赤く腫らしてるの知ってる。
あんなの、平気なわけないよ……」
沈痛な面持ちで、その女子は顔を伏せた。
俺はまだ、状況を把握出来ずにいた。
しかし、ただならぬ重い空気が漂っていることだけは理解出来た。
何かがあったんだ、と予想せずにはいられなかった。
「今から話すこと、美羽には言わないでね。絶対」
背筋がぞくりとしたのはきっと、寒さのせいだけではないだろう。
俺の鼓動も高鳴り始めていた。
手には汗が滲んだ。
異様な雰囲気のせいで、聞くことを躊躇われた。
しかし、今の俺にこれを拒む権利はないはずだった。
聞きたい、だが、聞きたくない。
相反する思いに、葛藤が生じた。
俺は腹を括ると、わかった、と返事をした。
その内容は、俺の想像を絶するものだった。
悪天候故、凍り付きそうだったはずの俺の体は、徐々に熱を帯びていった。
気が付けば手には拳が出来ていて、怒りからこめかみが痛むほど歯を食い縛った。
眉間にも何度も深い皺ができ、頬がひきつるのが分かった。
行き場のない憤りから、彼女達を問い詰めたりもした。
俺の豹変ぶりに、驚きと恐怖を露にしていた。
それで俺は辛うじて、我に返ったのだった。
彼女達の話を要約すると、つまりはこういうことだった。
姫野が俺との関わりをまったく絶ったのは、姫野自身の意思ではなく佐久間によるものだった。
寧ろ、姫野の意思はそれとは反対で、幾度とない苦渋の葛藤の末、佐久間に従わざるを得なかった。
それがどういうことなのか、遡るは中学時代だった。
姫野と佐久間は同じ中学校出身で、その時から佐久間は姫野に強く惹かれていた。
しかし、その懸命なアプローチも熱烈な思いも虚しく、佐久間と姫野が結ばれることはなかった。
何故なら、姫野には他に思いを寄せる人がいたからだった。
そのことを知った佐久間は、激しい嫉妬を覚えた。
姫野への強い思いも然ることながら、それが叶わなかったことでより一層思いが膨れ上がったようだった。
自分のものにならない歯痒さもあり、佐久間は俺が想像するよりも遥かに苦しんだとみる。
猛烈な嫉妬から、佐久間は姫野が思いを寄せる、その男にやり場のない怒りの矛先を向けた。
そこでいったい何が起こったのか、それは俺が二学期に経験した騒動とほぼ同じ類いのことだった。
しかし、中学生という若さと純粋さ故、爆発した激情は、もはや抑止することが不可能だった。
結果、佐久間はその男を病院送りにした。
命に別状はなかったが、全治三ヶ月という大怪我を負った。
それから、姫野は自分自身を責めた。
好きになんかならなければ、こんなことにはならなかったのに。
私のせいだ。私のせいで彼は――
そんな風に毎日毎日、自分を責め続けた。
そして心に誓った。
もう決して誰も好きにならない、と。
佐久間をどうすることも出来なかった姫野は、そうするしか術がなかった。
恐怖と絶望とトラウマを、一人抱えながら。
「でもね……やっぱり気持ちって、思い通りにはいかないものなのよね」
第一声を発した彼女は言った。
「美羽は自分の気持ちに知らないふりして頑張ってた。
だけど……ムリだったの」
「和久井くんと話すうちに好きって気持ち、どんどん大きくなって、とめられなくなったんだと思う」
「ほら、よく残って勉強してたでしょ? 二人で」
「あの美羽が、自分から誘うなんてよっぽどだよ。
すごく勇気いったはずだよ」
「だから美羽の気持ち、信じてあげてほしいの。
ちゃんと、本気だったから」
「本気だから……和久井くんから離れたんだよ。
佐久間から、守るために。
中学の二の舞にならないように。
自分の心、偽ってまで、和久井くんを守ったんだよ」
「だけど……結局、誰かが流した噂のせいでばれちゃって、美羽の努力もみんな水の泡」
言葉に詰まったその友達は、つらい情景を思い出したのかして堪らず涙した。
「美羽ね、あのあともまた自分責めてたの。私の、せいって……違うのに、何も悪くないのに……」
その子は泣き崩れた。
何かが際限なく溢れ、俺の全身は俄に震えた。
もう立ってるのも、話を聞いているのさえも限界だった。
そして、その場をあとにした。

