「和久井慎一!」
そこに居たのは、喧しいことで有名な俺の担任だった。
びびって損をした、とため息を吐き出した。
というか、普通に登場しろ、と毒づく俺に担任は一喝した。
「あなたが戻って来ないから、教室を閉められなかったでしょうに!
どれだけ迷惑をかけているか、わかっているの?
せっかく今日は早く帰れる日だっていうのに!」
「すみませんでした」
「というわけで、戸締まり宜しくね」
そして、鍵を置くなりすたこらさっさと姿を消したのだった。
面倒が増えてしまった。
お陰で、終業式だというのに、まったく気分は晴れなかった。
とりあえず、気を取り直すと姫野の机上を片した。
配布物と、いつ出したのか筆箱も仕舞おうとすると、欲張ったせいで筆箱が落下した。
チャックが開いていたせいで、中身は散らばった。
本当にとんだ災難だった。
拾うペンも、仕舞う筆箱もみな懐かしさを煽り、途端に胸が苦しくなった。
誰もいない教室に、俺と姫野の鞄が二つ。
否応なしに、あの束の間の楽しかった日々が思い起こされた。
もはや、嫌な記憶でしかないはずなのに、締め付けられた胸からは温もりが漏れた。
過ぎた時間のように、もうあの日の二人には戻ることが出来ないというのに。
行き場を失った焦がれる思いに、俺は強く、強く蓋をした。
もう思い出すことのないよう、胸の奥深くに閉じ込めた。
俺は二人分の鞄を手にすると、ドアを閉めた。
教室には目もくれずに。
まだ当分目を覚まさない、という魔性先生の言葉もあり、俺はゆっくりめに保健室へと向かった。
まあ、あの人と二人だけという空間にいることを、避けるためでもあるのだが。
わざわざ遠回りをし、人気の少ない階段を使用したが、俺はもう保健室へと続く廊下へと差し掛かっていた。
その保健室からは、暖かそうな光が漏れていた。
その直後だった。
勢いよくドアが開かれたかと思いきや、生徒らしき人が飛び出てきた。
俺がいる方向とは、反対側に走っていくその人物を目凝らしてみた。
俺は驚愕した。
そして、思わず追いかけていた。
「姫野!」
予想外に早く追い付いた。
姫野は何故だか素足だった。
「わ、わくい、くん? あれ? なんで……」
振り向くなり、姫野はぼろぼろと涙を溢しはじめた。
俺は訳が分からなくなって、狼狽えた。
彼女は泣きじゃくりながら何かを言っていたが、俺が唯一聞き取れたのはよかった、の一言だけだった。
それから、少し遅れて魔性先生がブランケットを持って走ってきた。
「もう、そんな格好じゃ寒いでしょう。風邪、ひどくなっても知らないわよ」
とか何とか、小言を溢しつつブランケットを姫野の肩に羽織らせた。
そして、固まっている俺に先生は言った。
「彼女、目を覚ますなり、あなたの姿がなかったからパニックになっちゃって。
私の言葉も聞かずにこの有り様よ。
和久井くんなら、教室に鞄を取りにいってるわよって、言おうとしていたのに」
「ごめんなさい……」
頬を赤くして、姫野は俯いていた。
睡眠をとったことにより、少しだけ元気を取り戻していた。
俺も安堵したが、これから二人だけで帰るのは、気まずいことこの上なかった。
「しっかり、送り届けるのよ。姫野さん、まだ本調子じゃないから送り狼にはならないようにね」
先生は、まったく矛盾したことを言っているのにも気付かず、にこやかに見送った。
そして、嫌な沈黙はすぐに訪れた。
姫野が今日、伝えようとしていたこと、それも気になったが、切り出すタイミングが分からなかった。
まさか、謝りたかったというのがそうなのか。
しかし、それ以外に何も思い浮かばないのもまた事実だ。
特に何も言葉を交わすことのないまま、最寄り駅が見えてきた。
俺は複雑な思いでいた。
「あれ」
先程まで、すぐ後ろを歩いていた姫野の姿がなかった。
具合が悪化したのかと俺は慌てて、姫野の元へと駆け寄った。
「しんどい? 大丈夫?」
「あ、うん……。大丈夫」
俺はほっと息を吐いた。
しかし、姫野が歩き出す気配はなかった。
肩をすぼめ何かに堪えている、そんな印象を受けた。
「どうしたの?」
「あのね……」
姫野は絞り出すように言った。
「今日、忙しいかな……ちょっとだけ、時間ないかな?」
「え、でも体調良くないなら早く帰った方がいいと思うよ。
先生もそう言っていたし」
「忙しいなら、時間とらせないから。少しだけでいいから……お願い」
「姫野……」
「どうしても今日じゃなきゃだめなの……今日じゃなきゃ」
あまりの切な懇願に、俺は折れるしかなかった。
高熱で倒れただけに、体調が悪化しやしないかと心配する気持ちもあったが、とりあえず風通しの少ない場所へと移動した。
ちょうど、近くに草木がよく植わった公園があった。
少し狭い気もしたが、俺達はそこのベンチに腰掛けた。
案の定、落ち着けなかった。
とりあえず寒い手をポケットに入れたら、姫野が突如立ち上がった。
そして、俺に頭を下げたのだった。
「ごめんなさい!」
更に矢継ぎ早に続けた。
「私……ひどいこと、たくさんした。
貸してくれた参考書のことも、佐久間くんの暴力のことも。突然、和久井くんと関わるのをやめたことも。
ずっと、ずっと後悔していたの」
足元には、涙の跡と思われる影があった。
顔も上げずに姫野は続けた。
「本当に今さらだし、許してもらうつもりもないの。
だけど、このままはどうしても、嫌で……」
頬を乱暴に拭うと、漸く顔を上げた。
俺は目が合わせられなかった。
発すべき言葉も見つからず、視線は宙をさ迷った。
そして、気付けば開いた口からこんなことを言っていた。
「いいよ、もう。俺も忘れるし、今までのことはなかったことにしよう」
言い終わると、俺は立ち上がった。
その時、姫野の肩が微かに揺れた。
「今までって……全部、みんな、なかったことにするってこと?」
「え?」
「残って……一緒に勉強したり、たくさん話したことも全部……みんな、忘れるの?」
涙ぐんだ声に、すがるような問い掛けに俺は返答に窮した。
しかし、頷いていた。
だってきっと、その方がお互いのためだから。
そこには、重たい空気が流れた。
それを打ち砕くように、姫野は言った。
「できない……私にはできないよ」
あまりの強い声に俺は重たくなった体ごと、姫野の方に振り向いていた。
「ごめんね。勝手なこと言ってるってわかってる。
でもね、忘れるなんて、なかったことにするなんて、私には多分できない」
「どうして……」
「だって……何度も忘れようとしたけど、できなかったから!
頑張って忘れようとしたのに、どうしてもむりだったから」
姫野の頬は、とめどなく溢れてくる涙で濡れていた。
俺は、何だかとても胸が痛かった。
多分それは、彼女を抱き締める資格も権利も今の俺にはないからだった。
しゃくりあげながら、姫野は続けた。
「忘れられなかったのは、本当に楽しくて……私、しあわせだったから。
そう思えるのは、和久井くん、だけだったから」
呼吸もあまり整わないまま頬を拭うと、姫野はまだ涙が滲む目に無理やり笑顔を作った。
「だってね……和久井くんは、私の好きな人だから」
自嘲を溢すと、姫野の目からはまた涙が溢れた。だけど、彼女は笑顔を崩さなかった。
「へへ、ごめんね。最後まで迷惑かけて。
ごめんね……好きになんか、なって」
本当にごめんなさい、と姫野は残し走り去った。
俺は慌てて跡を追ったが、姫野はこれ以上迷惑かけたくないから、と強く拒んだ。
だから、つらそうに遠ざかる背中を、ただ見つめるしかなかった。
放心した状態では何も考えることは出来なかった。
姫野が残した言葉の意味も、執拗に謝る訳も俺には分からなかった。
尤も、翌日からは冬休みに入ったため、確かめる術も俺にはなかった。
それ以前に、こんなことに現を抜かしている暇も俺にはないはずだった。
何たって、今は受験生なのだから。
至極、大切な時期なのだから。
気が緩むと、ふと姫野の涙を思い出してしまうから、出来る限り無我の境地へと己を追いやった。
そうすることでしか、自分の理性を保つことが出来なかった。
しかし、その努力も三学期が始まってまもなく、水の泡となってしまう。

