俺に、青春なんて必要なかった



「風邪、引くよ」

俺も、姫野が視線を向けていた校庭に向かいながら、第一声を掛けた。
こちらを振り向くのが分かった。
その際、恐らく彼女の髪の毛に付いていたであろう雨滴が、首元に飛んできた。


「わ、和久井くん……来て、くれたんだね。突然、こんな所に呼び出したりしてごめんね」


そう言ってから、姫野は俯いた。
何となく、視線を合わせずらかったため、俺は校庭に向いたまま早速用件を尋ねた。
こんな所からは、一秒でも早く立ち去った方が、お互いのためだと思ったからだ。
寒いのは然ることながら、万が一誰かに見つかったりでもしたら、それこそ一貫の終わりだ。
姫野は、大きく息をしていた。
その息は、白くなり始めていた。


「何から、話したらいいかな」


「姫野?」


「ごめんね……いろいろ、考えていたんだけど、なんか言葉がうまくでてこなくて」


明らかに呂律が回っていない姫野を不審に思った俺は、漸く彼女の方を振り向いた。
肩で大きく呼吸を繰り返す姫野は、とてもしんどそうな様子だった。
立っているのもつらいのかして、寒さで真っ赤になった手をフェンスに絡めていた。
その手は、痛々しかった。
大丈夫、と声を掛けようとしたが、姫野が先に口を開いていた。


「私ね、ずっと、ずっと後悔していたの……和久井くんに謝りたくて、もう今さらって言われるかもしれないけど、やっぱり謝りたくて……」


「姫野」


俺の呼び掛けに、姫野が振り向こうとしたその時だった。
彼女は、力無くその場に崩れ落ちそうになった。
崩れ落ちなかったのは、一歩手前で俺が何とか支えたからだ。
雨に濡れて冷えているはずの体は熱く、頬は熱に浮かされたかのように逆上せていた。


「姫野、大丈夫?」


しかし、反応はなかった。
俺はぞっとした。
こんな状態なら、先程まで立っていたことさえ奇跡の気がした。
傘を放り出すと俺は姫野を抱え上げ、そのまま保健室へと直行した。


「あらまあ、どうしたの?」


ある意味、癒しの場である保健室には適当かもしれないが、そのおっとりとした口調は急を要する俺を苛立たせた。


「ひどい高熱なんです」


「彼女、姫野さんね」


先生の声色は、途端に怒気を帯びた。
理由は分からなかったが、俺は姫野をベッドに運びながらはい、と答えた。


「今朝から体調が優れなかったのよ、姫野さん」


「そうだったんですか」


「ええ。学校に来るなりここへ来てね、休んでいたの」


そうか。
だから、教室にはいなかったんだ。
小さな蟠りが一つ解けた。


「それで、今日はもう卒業式だけだから、帰った方がいいんじゃないって言ったんだけど」


そこで一旦、言葉を区切るとため息ともにつかない息を吐いた。


「どうしても今日は帰れないって、大事な用があるからってすごい剣幕だったわ。
だから、私も折れちゃって。
念のために薬は飲ませたんだけど、あまり効いていないみたいね」


心配の色を濃く滲ませながら、先生は濡れたタオルで姫野の額を拭った。


「ところで、姫野さんはどこにいたのかしら。雨に濡れているみたいだけど」


隣から、鋭い視線を感じるのは、きっと気のせいではない。
俺は内心、どぎまぎしつつも落ち着いて答えるよう努めた。


「屋上にいました」


「この、雨風の中?」


「はい」


「傘も差さずに?」


「……はい」


「あなたも一緒に?」


「え……っと、まあそうなります」


「そうよねえ。だって、あなたが姫野さんを連れてきたんだものねえ」


だったら、聞かないでくれ。
と思ったことは口にしないでいた。
先生の口調は恐らく、俺を咎めていた。
一緒にいたのなら、どうしてもっと早く気付かなかったんだ、と言わんばかりに。
確かに、その通りだった。
だから、俺は何も言えなかった。
そして、姫野の苦しそうな息遣いがより胸を締め付けた。


「でもまあ、一人じゃなくて良かった。
今頃、どこかで倒れていたりでもしたら……ねえ。ぞっとするわ」


罪悪感から、俺は黙っていた。
おっとりとした口調とは裏腹に、先生は鋭く俺の心中を見抜いた。


「あら、なにも自分を責めることはないのよ。
あなたがいてくれて、良かったんだから」


「俺は……その時、近くにいただけです」


「でも、用もなく屋上に行ったりはしないわよね、普通。それとも――」


体温計を手にすると、先生は姫野の方へと少し屈んだ。
そして、ブラウスのボタンに手をかけると、そっと目配せした。
俺は慌てて回れ右をした。


「それとも、あなたは屋上で授業をさぼったり、タバコを吸ったりするような良くない生徒なのかしら?」


何とも回りくどい言い回しに、探りを入れられているような不快感を覚えた。
どう答えたものかと悩んだ末、同じく疑問系で返すことにした。


「そう、見えますか」


俺の質問に顔を綻ばせると、どう答えたらいいかしらねえ、と先生ははぐらかした。
質問に対し、質問で返したものには答えない、という何とも魔性な一面を見た気がした。
その時、もう俺の中では、おっとりしたという第一印象はすっかりと消え去っていた。


「そこの彼」


不意に慣れない他人行儀な呼ばれ方をしたため、俺は恥ずかしいほど素直に振り返っていた。
先生は満足げに微笑みながら尋ねた。


「お名前は?」


「和久井です」


「そう。
和久井くん、そこに座ってもいいのよ。
さっきから、ずっと立っているけれど」


そう指定された場所は、姫野が横たわっているベッドの、真横の椅子だった。
俺は固まっていた。
魔性先生とのこの空気も苦手な上に、つい昨日まで関わりを絶っていた姫野の前に座るのも、何だか気まずかった。
第一、俺がここにいる意味はもうないはずだ。
そんな心の葛藤を見抜いたのか、先生が口を開いた。


「姫野さん、多分まだ目を覚まさないだろうから、荷物とか持ってきてあげてくれる?」


「はい」


「温かいから、ここで待っていればいいから」


「はい?」


俺は耳を疑った。


「だから、荷物を持ってきたらここで待っていればいいわ」


やはり、聞き間違いではなかった。


「まさか、先に帰るつもりなんかじゃないわよねえ。こんなにも弱ってる姫野さん、一人置いて」


更には、姫野さんの大事な用もまだ済んでないんだから、と付け加えた。
俺は悪寒がした。
何もかもを見透かされそうな、不吉な感覚に襲われた。


「荷物、取ってきます」


俺は直ちに保健室から立ち去った。
廊下はしんと冷え渡っていた。
環境は、空調整備が抜群である保健室の方が、確かに良かった。
しかし、精神的には廊下で待っている方が、ずっと良い気がした。
あそこは休める場所ではない。
ああいう女性は苦手だ、と思った。
幸い、教室にも廊下にも人はほとんどいなかった。
悪の元凶もとい佐久間の姿もないようだった。
内心、安堵しながら自分の席に向かって歩いていた時だった。
背後から、ドアを全開する音が聞こえた。
俺は凄まじい勢いで振り返った。