げんなりとしながら階下に降りる。
――それでなくても疲労が溜まっているというのに……。

なぜなら、約束通り僕はゴールデンウイーク明けから恵の家庭教師を始めたからだ。

だから、いつになく僕の毎日は忙しい。そして、いつになく疲労困憊だ。

恵がこれほど数学ができなかったとは……壊滅的と言った方がいいかもしれない。もし、普通科を狙っているとしたら、致命傷にもなり兼ねない。

仕方なくほぼ毎日、夜八時から十時まで二時間ビッチリみているが……やっぱり普通科は無理かもしれない、と思う今日この頃だ。

そんな訳で、自分の時間を確保するには睡眠を削るしかない。寝不足気味も重なってヘロヘロなのだ。

なのに、今日から塾生が一人増える。紹介者は岡崎母。
このことが余計に僕の気持を重くさせる。



そう……あれは、一週間ほど前だった。

『うちの患者さんなんだけど、ああ、でも虫歯は一本もないのよ。歯のクリーニングに月一回来る子なの』

珍しく健太を迎えに来た岡崎母が、突然にこやかに話し出した。

『名前は栗林二胡ちゃん、小学一年生。この秋からご両親がうちのマンションで洋菓子店を開くの』

岡崎母によると、その子は左足が少しだけ不自由なのだそうだ。
幼稚園ぐらいの時、事故に遭ったらしい。

『子供って無邪気で残酷なのよね。それをからかう子がいてね……』

それが原因で場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)になったと言う。

この症状は、家庭などでは話せるのに学校など特定の場所では全く話すことができなくなるなど、場所によって言葉が出なくなるという疾患らしい。

最初、そんな大変そうな子の面倒は見切れないと断った。
だが、そんな僕に叔父は雷を落とした。

『ここは逃げ込み家だ。人類みな兄弟、誰が来ようと拒絶することは許さない!」

人類みな兄弟って大袈裟だなぁと思っていたら……。

『大丈夫です。こいつは引き受けます』

――と僕の意見も聞かず、叔父が勝手に承諾してしまった。
店の責任者は叔父だが、塾長は僕なのに……。

『もう!』と怒ったが、結局、叔父の言う通りになってしまった。