「ね、ね、柚ちゃん」


「……」


「柚ちゃんってば」


「……」


「もう、ちょっと返事くらいしなさいよ」


「……」


「ゆーずーちゃーんー」


「……」


それでも彼からの返答はなかった。
どうしてもダメみたいだ。
この頑固者め。
これだからお子さまは困るのよね。
たかが、これくらいで。


「いつまで無視するつもりなの?」


「あなたもいつまで粘るつもりですか」


「なによ。質問を質問で返さないでよね」


腰に手をあて、自らの発言の正当性をアピールした。


「尤もらしいことを言っていても、紗綾さんが悪い現状には変わりない」


勝ち誇ったかのような冷静さで、彼は戯れ言を吐いた。


「悪いってなによ。
悪者扱いされる、身に覚えはないわよ」


「そうですか。そんなに嫌なんですね。
わかりました」


彼は静かに立ち上がった。そうして私の部屋を出ていこうとする。


「あ……」


“待って”


つい溢れ落ちそうになる、その言葉を私は呑み込んだ。
だって負ける気がしたから。
だから、側にあったクッションを彼目掛けて思い切り投げた。


「……」


「柚ちゃんのガキ」


そう叫んだ私は、彼を背後から抱き締めた。


「そう言う紗綾さんは頑固だ」


「だって、言ったじゃない。柚ちゃんって、そっちの方が呼びやすいんだもの。
それにかわいいじゃん。ダメなの……?」


最後の方はもうすがるような声しか出なかった。
甘える猫のように彼に擦り寄って、なんとか折れてもらえるよう頑張ってみる。
が、しかし。


「ええ。ダメですね。全く」


これっぽっちも歯が立たず、一蹴される始末。


「たかが、名前でしょ。
気にするなんて、ガキのすることよ」


「だったら、なおさら呼べばいいじゃないですか。
たかが、名前なんだろ」


突如変わった声色に、気づけば私は、ドアに押しつけられていた。


「柚ちゃん……怒ってるの?」


恐る恐る見上げれば、色欲に染まる鋭い目が私を捉えた。


「そうだな。少しだけ、イライラしてる」


「っ……」


「いつまで焦らすんだって、ね。
ほら、早く呼んでください」


いつの間にか息が上手くできなくなった。
こんな彼は初めてだった。
怖くて戸惑って、それなのに目が離せない。

静かな日曜日の昼下がり。
穏やかな日の光が降り注ぐ中、私は小さな部屋の中で彼に押さえつけられていた。
それも強く、鋭く射抜く瞳を向けられて。
つい、逃げたくなる感じ。
それを悟ったのか、怒っていたはずの彼が小さな笑いを溢した。


「ああ、そうか。もしかして、呼ばないんじゃなくてーー呼べない、とか?」


挑発の仕方とか、バカにした笑いとか、わざとらしい言い回し。
そう言うのを抜きにしても、頭に血が上らずにはいられなかった。
なぜならそれは、ほとんど的を得ていたからだ。
事実に他ならないからだ。
形勢逆転の余地はもうそこにはなく、突然見抜かれた事実に私は反論する余裕さえもなくしてしまった。
そして私が彼の名前を呼べないとるに足らない理由も、きっと今の彼にはばれている。
火照っていく顔に、熱いため息が出た。


「紗綾、言って。紗綾の口から聞きたい」


「……」


「今日僕がしてほしいことは、これだけです」


そう言っていつものかわいい笑顔を見せた。


(そんなおねだりの仕方、いつの間にするようになったの?)


怒ったと見せておきながら、最後は素直になる。
今日があなたの誕生日だということも含めれば、私にはもう叶えない理由がない。



(柚ちゃんの喜ぶ顔が見たい……)



私はそっと“伊吹”と口にした。
なのに、奴はと言うと。


「もっかい」


「伊吹……」


「もっと」


「っ……。もう五回も呼んだ!
第一呼びにくいのよ。
柚ちゃんのくせに、名前だけはかっこいいし。合わない。へん!」


一度にまくし立てると彼は困ったように破顔した。


「なに?」


「いや。かわいいなと思って。紗綾さんが恥ずかしがってる」


手玉に取られたもどかしさの中に、いつもの笑顔に戻った彼を見て、どこか物足りなさを感じてしまう自分がいた。

かわいくて一生懸命で、一途なところに惹かれた。
すぐに真っ赤になるところとか、愛しくてたまらない。
それもまた私の言動ひとつで自由自在になるものだから、クセになった。
だけど、最近は少し違う。
身長も付き合った当初に比べれば、差が開いているし、ただ年下のかわいいカレシだけではなくなってきている。
ドキドキする瞬間が増えていた。


(なんだか、悔しい……)


それなのに、強引な彼をいいとも思う。
言動で追いつめられて羞恥に晒されて、恥ずかしくて逃げたくて、やり返したいって思うのに、どこかで“また見たい”と思った。
強引な彼を見たい。
思い更けているとすぐ隣から声がした。



「ーー聞いてる?」


「えっと、なんだっけ?」


わざとらしい盛大なため息を吐くと、彼は言った。


「だから、紗綾さんって案外攻めに弱いんだなって言ったんです」


“弱点をひとつ、見つけました”


なんて、無邪気な笑顔で彼は言った。


(すごく嬉しそう。小生意気なヤツめ)


愉快そうに彼はまだ続けた。


「普段いじりキャラの人が逆にいじられたりすると、全然ダメだったりしますしね。
ホント、面白いですよ」


私をそのタイプの人間だと言わんばかりに楽しげに嘲笑う、彼。
間違いなく、からかっていた。


「弱点を見つけたつもりでいるなら、甘いわよ。
これから学校で散々、いたぶってやるんだから」


負け惜しみを言いながら背中合わせで座ると、私はそのまま彼を背中で押しやった。
しかし手応えはまるでなく、私は空振りをした。
彼はふわりとかわすと、私をいとも簡単に抱き上げた。
突如無防備になった自分の体。
彼は含み笑いをしていた。


「なにが可笑しいのよ」


「いや……今からあなたをいたぶる正当な理由ができたと思って」


「なまいき……」


「なんて、本当は期待してたんでしょう? この展開を」


「な! そんなわけーー」


図星を否定する私とは違い、彼は動じることなく答えた。


「なんでもいいよ。紗綾さんが悦んでくれるなら、僕はそれでいい」


それから落とされた口づけはあまりにも優しくて、私はもっとと言わんばかりに彼の首に手を回した。


「ゆずちゃーー」


その先をねだるように愛称を呼ぶはずだった私の口は、彼によって塞がれた。
正確には、彼の手によって。


「名前」


「え?」


「違うでしょ。紗綾」


「う……」


言いたくないと口をつぐめば、彼は優しく微笑んだ。


「だったら、この先もお預けだ」


本当はあなただって全然余裕がないくせに。
ほら、熱い吐息がそれを物語っている。
私はごくり、と覚悟を鳴らすと彼の理性を奪いにかかった。


「伊吹……キス、やめないで」


これでもか、と目を反らさずおねだりをした。
彼は目を一瞬見開き、そのあと降参の笑いを溢した。


「ああ、やっぱりあなたには敵わないですよ。紗綾さんーー」


はじまりの合図のようにもう一度キスを落とすと、彼は言った。


「今日は手加減しないから」


その言葉だけで体は異様なほど反応し、心は十分すぎるほど満たされた。

いよいよ私は、彼に対して“敗北”を認めなければならないのかもしれない。


(悔しい……。まだ認めないんだから。今日は、多めに見ておあいこよ)


(おしまい)