午後九時。静まり返った学園に突然防犯ブザーが鳴り出した。原因はこの学園の学園長室に忍び込んだ人物がうっかり防犯ブザーがを鳴らしてしまったのだ。
 静まり返っていた学園に防犯ブザーの音と共に鳴り響く数人の足音。そのうちの一人、奈緒が学園を出た直後口を開いた。
「なんで防犯ベルがついてるって事教えてくれなかったんだよ紗智ちゃん!!」
 奈緒に咎められた紗智は少し不機嫌になり、言い返した。
「奈緒こそ常にもっと注意して行動するべきよ!」
「つべこべ言っていないで走ったらどうだ奈緒」
 二人の会話に終止を出したのはいつになく冷静な真琴だった。しかし奈緒はこの行き場のない怒りをどうにかしようと、走りながら近所迷惑な声を発した。
「なんで由希と五月は実践に参加しねーんだよ!!」
『僕と由希さんは頭脳派なんです』
 奈緒の持っていた携帯電話から突然聞こえてきた五月の声。どうやら五月はここまでのいきさつを全て知っているようだ。一般の生徒は滅多に入れない学園長室に入った奈緒があれこれと珍しいものを物色し始め、誤って金庫に触れてしまった途端、防犯ブザーが鳴り、今に至ったという事を。
「あ……聞こえてたの五月……」
 奈緒の背筋をひんやりと冷たい物が滑り落ちた。なぜなら奈緒にも分かっていたからだ。五月の隣には必ずこの件の首謀者、由希がいる事を。自分が今「自分だけ楽な仕事をしている」と悪口を言っていた本人の由希がいる事を。正確に言えば、五月の側に由希がいるのではなく、五月がいつも由希の側にいるのだが。
「じゃあ何? あたしも運動派なの?」
 紗智は奈緒の携帯電話を取り上げ、電話の向こうの五月に問いかけた。
『さ、紗智さんのように実践でも役に立つ頭脳派の方を現場にも置いておかないと、と由希さんのご提案です』
 必死に弁解していたが、紗智には五月が明らかに動揺している事が分かった。そしてあたかもそれを見ぬいているかのように五月に言った。
「ホントに由希かしらね」
 しかしその次の瞬間、追手が奈緒たちの元へと近づいてきているのが分かった。
「こっちに逃げたぞ!!」
「ゲッ、もう来やがった!」
 奈緒は後ろを振り向いたが、人の姿は見えなかった。しかし、その代わりに遠くから数十名はいると思われる人間の足音が迫ってきた。
「あの声……」
 真琴は先ほどの声に聞き覚えがあるようだ。
「何か言った? マコ」
 その真琴の言葉を聞き逃していなかった紗智は真琴に問いかけた。しかし真琴の返答はそっけないものだった。
「いや、別に」
 真琴のことを不思議に思っていた紗智だったが、今はこの場から逃げる事が先決。視線を正面の奈緒に移した瞬間、奈緒の目前に人の影が突然現れた。
「! 奈緒前っ!」
「え? ……っうわああ……!」
 紗智の声で正面を向き返った奈緒は目前に迫っている人の影を避けきれなかった。
「きゃっ……」
 そしてその正面に現れた人物も、突然の出来事にその場から動けずにいた。その時間はわずか数秒、目をそむけた紗智と真琴がゆっくりと目を開けると、その相手と奈緒の間には五月が入りこみ、その人をかばっていた。
「……何やっているんです奈緒さん」
 顔をゆっくりと上げた五月とその口調は明らかに先ほどの事をまだ怒っているようだ。
「五月! どうして……」
「由希さんに言われて様子を見に来たんです。すいませんおケガはありませんか?」
 五月は相手が落としたカバンの中から飛び出た教科書類を拾い、その人物に渡した。五月はおそらく分かっていたのだろう、その人物を助ける時、その人物が女性だという事を。女性に対しては自分の事を後回しにしてでも気遣う、だから五月はフェミニストと呼ばれるのだろう。
「ごめんなさい、あたしの不注意です」
 そう言って顔を上げた少女の顔を見た途端、奈緒はこう叫んだ。
「ゆっ百合!?」
「はい?」
 少女はにこやかに微笑んだが、その対応の仕方から彼女は奈緒の言う『百合』という人物ではない事は確からしい。
「奈緒っ!」
 紗智は奈緒の肩に手をかけた。するとまたしても先ほどの声が追ってきた。
「こっちだ! 探偵部を逃がすな!!」
「やはりあの声は……」
 真琴は確信を持ったらしい。その声の持ち主が自分の知っているある人物だという事を。
「探……偵部?」
 そう言った少女、姫乃は四人の顔をじっと見つづけた。
 五月は小さな溜息をつくと、こう言った。
「仕方ありませんね。ちょっと一緒に来ていただきましょうか」
「分かった」
 奈緒は五月から合図を受けると姫乃を軽々と抱え、そのまま四人で走り去ってしまった。
「え、ち、ちょっと……」
 追手の拓斗がその場に着いたのはそれから約一分後だった。
「くそっ、逃げられたか」
 探偵部を逃がしてしまった悔しさゆえ、左手を側の電信柱に叩きつけた拓斗のその手からは、わずかに血が滲み出していた。
「岬さん、どうなさったの?」
 拓斗がその声に降り返ると、そこには麻貴の姿があった。
「すいません麻貴さん。探偵部に逃げられました。」
「そう、いいわ。」
「いいんですか?」
「麻貴、とーってもいい事考えたの。」
「いい事?」
 そう、にっこりと笑う麻貴の笑みに拓斗は何かとてつもなく邪悪なものを感じていた。
 学園寮
 五月は寝ている他の寮生や監督官を起こさぬよう、ゆっくりと由希の部屋に近づいた。
 五月がノブに手をかけ、扉を開けたのとほぼ同時に由希の携帯電話が鳴り出した。
「はい、僕です」
 電話を右耳と右肩の間に挟んだ由希はそのまま机に向かい、パソコンで作業を始めた。
「そうですか……いえ、別に……はい、どうもありがとうございました。……では」
 由希が敬語を使っているのを久しぶりに見る五月だったが、いつも由希の側にいる五月でさえも、【午後九時以降→由希の携帯に電話をかける→由希が敬語を使う相手】の公式だけは解けなかった。
「由希さん……」
 五月が由希にそっと声をかけると由希は無言のまま、パソコンの電源を切り、ようやく五月の方へ振り向いた。
「五月か、何だ」
 五月は少し困った様に微笑むと、扉を少し大きめに開き、後ろから姫乃を中へ招き入れた。
「どうぞ」
 姫乃は、少しおどおどした様子で、中に入ってきた。由希は少し驚いた様子で、しかしいかにもけげんそうな目で、姫乃と五月を見る。そして、眼鏡を外すと、五月に声をかける。
「……それで?」
「その、似ていませんか? 彼女、百合さんに……」
「どういう返答を期待している」
 予想し得なかった由希の反応に、五月は少し戸惑う。なんと答えたら良いか分からなかった。
「いえ……」
「あの……」
 その時、五月の隣でずっと様子をうかがっていた姫乃がようやく声をかける。
 ようやく気付いたように五月は姫乃を更に部屋の奥へと進める。
「あ、すいません。あの、お名前は?」
「薬師寺姫乃です」
 まるで花のようだという形容がまったく似合う微笑み方で姫乃は五月に話しかける。
「僕は宮之城五月です。そしてあちらが……」
 返答を期待してはいなかったが、五月は視線を由希に移す。
「多賀城由希」
 退屈そうに姫乃を見る由希は、早く帰れと言っているようだった。
「……さんです。」
「それでその、あたしがここに連れてこられた理由は……」
 流石に心配になってきた姫乃の後ろから、紗智がひょっこりと顔をだす。
「あたしが説明するよ」
「紗智さん」
「西園寺紗智。よろしく」
「よろしく」
 姫乃に説明をする為、別室に移そうとする紗智を、五月が呼びとめる。
「紗智さん、少しよろしいですか?」
 少し、不満気ではあったが、紗智は了承するしかなかった。
「ええ、では薬師寺さんをマコ達の所に連れてってから」
「はい」
 紗智が姫乃を連れて部屋を出た後、五月は辺りを見まわして誰もいないことを確認すると、部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
 由希も、再び眼鏡をかけると、立ちあがり、窓の側まで行くと、カーテンを開け、夜空の様子をうかがった。
「……『薬師寺姫乃』。由希さん、聞き覚えは……?」
「いや、ないな。……薬師寺……」
 そうぽつりとつぶやき、由希は何かを考え込んだ。
 由希は自分で考えていることを決して話してはくれないので、五月は少々もどかしさを感じながらも、由希の様子を見守った。
 そして、しばらくすると、紗智を別室に連れて行った紗智が戻ってきて、部屋の扉を叩いた。
「由希入っていい?」
 五月はいそいで、鍵を開けると、紗智を中へ招き入れた。
「どうぞ」
「ありがと」
 紗智が部屋に入ると、再び五月は外の様子をうかがった後、鍵をかけた。
 椅子の背もたれに背中を預けた由希は、そのままくるっと正面から紗智の方へと方向を変える。
「薬師寺姫乃。彼女の事を調べられるか?」
「時間は?」
「できるだけ早く」
「了解」
 紗智が部屋を出た後も、由希は何か考え事をしているようだった。
「由希さん何か?」
「ああ、でも……明日には分かるだろう」
「……」
 返答を期待してはいなかったが、五月は由希が何を考えているのかが、なんとなく分かった。
 その時、五月の方を見ようとしなかった由希が突然振り返り、五月がよりかかっている扉の背後にむけて声をかけた。
「奈緒か?」
「!」
 そのことに、五月は気が付かなかった。こんなに近くにいた自分は気付かなかったのに、どうしてあんなに扉から遠い所にいた由希には、奈緒がいることが分かったのか、五月が鍵を開けると、本当に奈緒はそこに立っていて、部屋に入ると、まっさきに由希のもとへと近寄った。
「由希、あの子を探偵部に入れる気なのか?」
「姿を見られてしまっては仕方ないだろう」
 そう言いながらも、由希は、『お前のせいだ』と言わんばかりの視線で、奈緒を見ていた。
「でも俺……あの子を百合に重ねちまいそうで恐ェよ」
 声が少し震えている。本当に恐れているのか、こんなに弱気な奈緒を見るのは本当に久しぶりだと、五月は思った。
「奈緒さん、でもそれは由希さんも同じ……」
「五月」
 そこまで言いかけた五月の言葉を、由希は一言で制する。五月は由希が表情には出さないが、怒っている事に気付き、もうその話題に触れることは二度とできなかった。
「奈緒、どいて」
 奈緒を差し置いて、自室のパソコンで姫乃について調べ終えた結果を持った、紗智が入ってきた。
「あ、悪い」
「由希、入るよ」
「分かったか」
「ええ、少ないですけど」
 結果を印刷した紙の束を由希に渡す。同じ紙の束を自分でも持って、紗智は、内容を読み上げた。どこで調べてきたのか、その紙には、姫乃の顔写真や、家族構成、これまでの経歴など、事細かに記されていた。
「薬師寺姫乃。高屋敷学園からこの学園に編入予定。クラスは2-A」
「A組は由希さんのクラスでしたよね」
「ああ」
「家族は父、母の三人暮し。来年四月に出産予定です」
「そうか」
 すると、後ろから、真琴が姫乃を連れて入ってきた。探偵部の必要性について真琴から説明された姫乃は、真剣な表情で入ると、由希の顔を見た。
「由希、彼女探偵部に入ってくれるそうだ」
 もう取返しのつかない状況まできている事が分かった由希は、大きな溜め息を一つつくと、姫乃の顔を見た。その鋭い視線に、姫乃は、たじろんでしまう。
 こう見ると、確かに五月の言う通り、姫乃は百合に似ていると、由希は思った。そう思えば思うほど、姫乃を危険な目に合わせる事だけはしたくないと、由希は心底そう思った。
「『見習い』でいいな」