12月―――
クリスマスも近いこの時期、街はクリスマスムード一色で賑わっている。
日河岸[ヒガシ]にある、とある有名進学塾の扉が開かれ、中から授業を終えた生徒達が出て来る。
その中の一人、辻本唯[ツジモト ユイ]は二月に高校受験を控えた北中学三年生である。
師走に近付くと流石に寒さが増し、唯と同様に塾から出て来た生徒たちは皆口々に寒さを訴え、少しでも早く家に帰ろうと足を早める。
予期せぬトラブルの為終了時刻が大分遅くなってしまったので、唯は現在の時間を確認しようと横断歩道で立ち止まりながらコートのポケットから銀色に光り輝く懐中時計を取り出す。
「おい、」
突然声を掛けられ、唯はその主を見上げる。自分よりも一回り近く体格の大きい男が二人、唯の前に立ちはだかっていた。その男達はどちらも黒い革手袋をしていた。
男たちの視線は、唯が手に持っている懐中時計と唯の顔に交互に向けられていた。
「オメェ、喜多[キタ]の奴だろ。何でここにいんだよ」
唯は男達の顔を交互に見返す。
やがて、唯が待っていた信号が青に変わり、信号待ちをしていた人々が一勢に歩き出す。
唯も歩き始め、横断歩道の中盤に差し掛かった辺りで、立ち止まっていた先程の男二人が―――倒れた。
「キャァァアアアア…!!」
その光景を目撃した女性の甲高い叫び声。
それでも振り返りもせずに歩き続ける唯の背後にそっと近付いて行った男が声をかける。
「辻本様、ナイフを。」
男の言葉に、唯は顔も向けずに右ポケットにしまい込んだままの赤く汚れたカッターナイフを手渡す。
唯から受け取ったカッターナイフをハンカチで受け取ると、その男は周りの人々に気付かれないようそっと自らのポケットの中にしまい込む。
「ここは日河岸のエリアです。あまり目立つ行動はお控えになられた方が…」
そう言って唯に声を掛ける男、亜純[アズミ]は年齢的には唯より年上で身長も若干高い。
しかし、立場としては亜純より唯の方が上だった。
唯は亜純を振り返りながら僅かに笑う。
「だって、絡まれたのだから、仕方ないだろう?」
冷たく、そして子供独特の悪気の無い純粋な笑顔。
亜純はそんな唯の表情に寒気を覚えた。
この地区は、公園を中心に東西南北それぞれが日河岸、仁志[ニシ]、美波[ミナミ]、喜多の四つに分けられており、またそれぞれの地区を統括する小規模な少年集団がある。
暴走族、と呼ぶ程荒れたものではないが、二十年以上昔から隣接する地区同士縄張り争いを繰り広げていた。
各地区のリーダーと呼ばれるのは大低十代の少年少女で、場合によっては世代交代もある。
世代交代の儀式は地区によって様々である。
地区には各々特徴があり、所属するメンバーから認められたただ一人がリーダーとなり地区の統制を謀る権利を持つ。
また、それぞれのチーム毎に揃いのアイテムを持つことが決まりとなっており、持っていないものは何処のチームにも所属していないと認識される。
暴力的な手段を選ばず、頭脳派なメンバーが多いのが喜多チームである。
このチームの揃いは正確さを表す懐中時計で、このチームのリーダーが唯である。
唯が世代交代をしてリーダーの座に就いたのは今から二年前の中学一年生の時だった。
就任したばかりの唯は、それまで暴力によって日河岸から脅かされていた喜多をその知力のみで守りきり、今では日河岸からも仁志からも一目置かれる存在となっている。
しかし唯は現在中学三年生。宝の持ち腐れとならぬようその頭脳を生かすにはそれなりの高校に進学するべきだと思っているし、その為に通うレベルの高い進学塾は日河岸の地区にしか無かった。
唯から見れば、知能の低い集まりである日河岸のメンバーは子供にしか見えないし、何でも金で解決しようとする頭の悪い金持ちの息子娘の仁志も同様にしか見えなかった。
正しいのは自分のチーム。それはどのチームも恐らく同じように思っていることだった。
並外れた頭脳を持つ唯にとっては毎日がつまらなく、擦れ違う人々が皆、灰色に見えることもあった。
「!」
「辻本様…?」
横断歩道の途中で足を止めた唯を不審に思い、亜純が顔を覗き込む。
唯の視線はただ一点のみに注がれていた。
目の覚めるような、赤いバンダナ。
殊更近年はあまり見かけることも無くなった黒く長いストレートヘアー。
身長は自分より幾分か低いだろうか。
何よりも印象的だったのは―――その”目”。
猫のような、獣のような強い光を放つその双眸に唯は引き込まれた。
バンダナは、美波エリアの揃いだった。
感情の起伏があまり激しくない唯は思わず叫び出しそうな己を押さえ込んだ。
その少女は、唯が今向かおうとしている側から唯の方へと向かって横断歩道を歩いてきていた。
横断歩道の先は日河岸のエリア。
もしこの美波の少女が何も知らずに日河岸に入ろうとしているのならば、今のような目立つ格好でいるのは自殺好意だ。
自分のエリアに余所のエリアの者がいる、というたったそれだけでも日河岸の連中にとっては恰好の餌となるのだった。
しかし自分のところのメンバーならばともかく、相手は美波の人間。
美波と日河岸が揉めようとも、唯にとっては何の痛手でもないのだ。
その時までは―――
擦れ違う瞬間、その少女と目が合った。
とても澄んだその瞳の色に、恐らく、その瞬間に唯は恋に落ちたのだった。
名前も知らない、敵に属するその少女に。