放課後。
僕が帰ろうとすると立花先生に呼び止められた。立花先生は国語科の女性教師であり、3年B組の担任だ。
ちょっと来なさいと言われて、先生と向かい合わせに座らせられる。
「卒業後の進路の事なんだけどね」
ふくよかな唇を吊り上げてその先生は僕に言った。
「澤田くん、本当に就職でいいの?」
なんでそんな事を言われるのか僕には分からなかった。
「どうしてそんな事を言うんです?」
先生は形のいい眉を寄せて、困ったような顔をした。
「だって、澤田くん。君は成績がとってもいいじゃない。ほら、私立の皐月高校なら授業料と教材費が成績順に免除されるわ。澤田くんの成績ならトップを狙えるし……。どうかしら?」
僕は先生の顔を半ば睨み付けるようにして言った。
「先生。僕の家の事を知っていますよね。父は酒に溺れて入院して、母は水商売に手を出して……。もう、僕しかいないんです。家族を支えられるのは」
先生は僕の言葉を噛み締めるように悲しげな顔で頷いた。
「そうね。でも、就職って思っている異常に大変だし、中卒ってだけで舐めてかかってくる馬鹿な大人も大勢いるしそれに……」
「もういいです」
もういい。聞きたくない。子供に構ってやっている自分に酔っているだけだろう。
僕は、立ち上がった。
「帰ります」
教室の出口に向かおうとした瞬間に後からバンッという音がした。
驚いて振り替えると、先生が机を思いきり叩いたようだ。
「座りなさい」
冷たい声だ。けれど、どこか暖かさを感じる。
「帰ります」
「じゃあ、座らなくていいから最後に1つだけ言わせて」
先生は一度うつむいてから、僕の目をまっすぐに射抜くように見つめた。
「私みたいに親に高校行かせてもらって、大学も行って、今も両親が元気で。みたいな人に何を言われても今の澤田くんには何も響かないよね。でも、私が思ったことを教師としてじゃなくて人間として言わせて」
先生の顔はまるで子供が泣く直前のような顔だった。先生の後からさす燃えるような夕陽はあの夢のように綺麗だった。
「澤田くんはね、そうやって自分で自分に呪いをかけているだけなんだよ。澤田くんはまだ子供でいていいんだよ。子供らしく夢を追いかけるの」
先生は一瞬、僕の袖口から覗く汚い包帯を見た。僕の頬に貼られた絆創膏を見た。
「澤田くん。夢はある?」
先生は穏やかな顔で僕を見つめた。まるで、あの夢の母のように。
僕の夢は、あの夢だ。家族の幸せ。そして、僕の幸せ。それがあれば僕は……。
「僕は……家族を幸せにしたい。それに、僕も幸せになりたい。また昔みたいに本当に笑ってみたい」
いつの間にか僕は教室の床に膝をついて泣いていた。その時だけ、僕は子供になれた気がした。
「素敵な夢じゃない」
先生は僕の頭を優しく撫でた。
「澤田くん。高校の話しお母さんとしたことある?」
「就職するって言ったきり、進路の事は話してないです」
「じゃあ、本当の本当にこれが最後の質問ね。もう同じこと聞かないから。澤田くんはどうしたいの?」
僕は胸のうちに溜め込んでいた思いを吐き出すように言った。
「高校行きたいです。僕は…僕はまだ子供でいたい。それで、それで……」
「ええ、ええ。今度学校にお母さんを連れてらっしゃい。先生と話しましょう?」
「……はい」
喋り終えてからは本格的に嗚咽が止まらなくなってしまった。
先生は僕が泣き止むまでずっと側にいてくれた。
たった一人の優しい言葉で僕の冷えきっていた心は溶かされた。
そうか、僕は遠くへ行きたかったんじゃなかったのかもしれない。ただ目の前の辛い現実から目を背けたかったんだ。母は悪くないから僕が守らなければとただ盲目的になり、それと相反して現状を嘆くことで様々なことを考える隙を自らに与えなかった。そうやって逃げていたんだ。
生きている事は、幸福を作り上げる材料の1つになることもあるが、反対に毒にもなる。だから、生きているから幸せなんて安直に思ってはいけない。人は何かにやり甲斐や生き甲斐を感じていなければ生きているとは言えないのだろう。何かを諦めてしまったらそれ相応の対価を支払うのが人生というものなのだ。
先生は、僕が追いかけたいものに気づかせてくれた。
僕が帰ろうとすると立花先生に呼び止められた。立花先生は国語科の女性教師であり、3年B組の担任だ。
ちょっと来なさいと言われて、先生と向かい合わせに座らせられる。
「卒業後の進路の事なんだけどね」
ふくよかな唇を吊り上げてその先生は僕に言った。
「澤田くん、本当に就職でいいの?」
なんでそんな事を言われるのか僕には分からなかった。
「どうしてそんな事を言うんです?」
先生は形のいい眉を寄せて、困ったような顔をした。
「だって、澤田くん。君は成績がとってもいいじゃない。ほら、私立の皐月高校なら授業料と教材費が成績順に免除されるわ。澤田くんの成績ならトップを狙えるし……。どうかしら?」
僕は先生の顔を半ば睨み付けるようにして言った。
「先生。僕の家の事を知っていますよね。父は酒に溺れて入院して、母は水商売に手を出して……。もう、僕しかいないんです。家族を支えられるのは」
先生は僕の言葉を噛み締めるように悲しげな顔で頷いた。
「そうね。でも、就職って思っている異常に大変だし、中卒ってだけで舐めてかかってくる馬鹿な大人も大勢いるしそれに……」
「もういいです」
もういい。聞きたくない。子供に構ってやっている自分に酔っているだけだろう。
僕は、立ち上がった。
「帰ります」
教室の出口に向かおうとした瞬間に後からバンッという音がした。
驚いて振り替えると、先生が机を思いきり叩いたようだ。
「座りなさい」
冷たい声だ。けれど、どこか暖かさを感じる。
「帰ります」
「じゃあ、座らなくていいから最後に1つだけ言わせて」
先生は一度うつむいてから、僕の目をまっすぐに射抜くように見つめた。
「私みたいに親に高校行かせてもらって、大学も行って、今も両親が元気で。みたいな人に何を言われても今の澤田くんには何も響かないよね。でも、私が思ったことを教師としてじゃなくて人間として言わせて」
先生の顔はまるで子供が泣く直前のような顔だった。先生の後からさす燃えるような夕陽はあの夢のように綺麗だった。
「澤田くんはね、そうやって自分で自分に呪いをかけているだけなんだよ。澤田くんはまだ子供でいていいんだよ。子供らしく夢を追いかけるの」
先生は一瞬、僕の袖口から覗く汚い包帯を見た。僕の頬に貼られた絆創膏を見た。
「澤田くん。夢はある?」
先生は穏やかな顔で僕を見つめた。まるで、あの夢の母のように。
僕の夢は、あの夢だ。家族の幸せ。そして、僕の幸せ。それがあれば僕は……。
「僕は……家族を幸せにしたい。それに、僕も幸せになりたい。また昔みたいに本当に笑ってみたい」
いつの間にか僕は教室の床に膝をついて泣いていた。その時だけ、僕は子供になれた気がした。
「素敵な夢じゃない」
先生は僕の頭を優しく撫でた。
「澤田くん。高校の話しお母さんとしたことある?」
「就職するって言ったきり、進路の事は話してないです」
「じゃあ、本当の本当にこれが最後の質問ね。もう同じこと聞かないから。澤田くんはどうしたいの?」
僕は胸のうちに溜め込んでいた思いを吐き出すように言った。
「高校行きたいです。僕は…僕はまだ子供でいたい。それで、それで……」
「ええ、ええ。今度学校にお母さんを連れてらっしゃい。先生と話しましょう?」
「……はい」
喋り終えてからは本格的に嗚咽が止まらなくなってしまった。
先生は僕が泣き止むまでずっと側にいてくれた。
たった一人の優しい言葉で僕の冷えきっていた心は溶かされた。
そうか、僕は遠くへ行きたかったんじゃなかったのかもしれない。ただ目の前の辛い現実から目を背けたかったんだ。母は悪くないから僕が守らなければとただ盲目的になり、それと相反して現状を嘆くことで様々なことを考える隙を自らに与えなかった。そうやって逃げていたんだ。
生きている事は、幸福を作り上げる材料の1つになることもあるが、反対に毒にもなる。だから、生きているから幸せなんて安直に思ってはいけない。人は何かにやり甲斐や生き甲斐を感じていなければ生きているとは言えないのだろう。何かを諦めてしまったらそれ相応の対価を支払うのが人生というものなのだ。
先生は、僕が追いかけたいものに気づかせてくれた。

