冷たい風が僕の頬を掠める。
息を荒くし、後ろにあるフェンスを握り締める。
──ここから逃げ出したい。
片足を前に出す。途端、僕の半身を浮遊感が包んだ。それは、全身に広がった。いつの間にかもう片方の足も前に進んでいたようだ。
僕の体は落下していく。全てがスローモーションになり、浮いてる気にさえなる。

僕は遠い所へ。


ビール瓶が僕の腕を引き裂いた。
「あ……っ」
痛みに顔を歪めると、母は声を荒げた。
「本当…可愛いげのない子!」
頬を引っ掻かれた。衝撃で床に倒れこむ。頬は血が滴り、腕には生々しく赤い肉がみえる。
「あんたさえ……っ、あんたさえいなければあの人はここにいたのよ!私は幸せだったのっ……!私を苦しめないでよ!」
髪の毛を引っ張られ、腹を殴られる。黄色い液体を吐き出すと、床に強引に叩きつけられた。
「汚い子!……あんたなんて私の子供じゃないわ!」
母は寝室に入り、乱暴にドアを閉めた。
部屋はさっきまでの喧騒が嘘だったかのように静まった。まるで嵐が過ぎたようだった。
僕は、床に夥しく広がる胃液を雑巾で拭き始めた。腕がひどく痛む。後で包帯を巻かなければ。片手にはもう既に薄汚れた包帯が巻かれている。そう、こんなことは日常茶飯事なのだ。父が家を出てからは。
父は、会社をリストラされてから酒に溺れた。母はそんな父を献身的に支えていたが、父は母に暴力ばかり奮っていた。そんな毎日が三ヶ月ほど続き、ついに父が母を殺しそうになった。父は母の首を絞めようとしたのだ。僕は父を突き飛ばし、警察に通報をした。父は暴れたが、アルコールで弱った体はかつて快活だった父とは比べ物にならないくらいに弱々しかった。だから、僕はなんとか父を押さえ付けていることが出来た。警察は父を連れていった。当時、中学一年生だった僕には父が病院に連れて行かれた事だけを知らされた。それから僕は母と二人で暮らしていた。けれど父がいなくなってから(お金が必要だと言って水商売に手を出した事も大きいだろう)母は少しずつ壊れていった。少しのことでイライラするようになり、やがて僕に当たり散らすようになった。
僕は毎日抵抗することが出来ないでいる。母は被害者なのだ。
母は何も悪くない、はずだ。
僕が父をどうにかしていればよかった。
そんな罪の意識が僕の心を締め上げる。
胃液を拭き終わったので、僕は棚の上から救急箱を取り出した。ガーゼと包帯、テーピングを取りだし、手早く処置をした。本当は病院に行かなければならないのだろうけどそんなお金は無いし、母に言ったら余計に傷を増やすだけだ。
包帯から血が滲む。僕はいつ自由になれるのだろう。母の寝室から聞こえる微かな泣き声を背に、赤い包帯の上に透明な雫が垂れた。