世子様に見初められて~十年越しの恋慕



何事が起きたのか把握出来ないソウォンは眼を見開いたまま呆然としていると、ヘスは体勢を立て直し、視線を逸らした。

「すまぬ」

ソウォンの華奢な体を包み込むようにしているヘスは、暗闇に浮かぶ下弦の月を眺めながら、口元が緩むのが抑えられなかった。
一方、ソウォンはヘスの言葉で状況を把握した。
生まれて初めて経験したのだから動揺するのも仕方がないが、まさかその相手が、世子様だなんて……。
世子様の御目に適うのであれば光栄なこと。
しかも、長年胸の奥に隠し秘めていた相手だけに、心がときめかずにはいられない。
けれど、そんな感情も世子様の言葉で、一瞬で掻き消された。

“すまぬ”と仰ったその意味は、何も意味を成さないことの裏付け。
世子様は何とも思ってなく、ただ単に口づけしたことに対しての言葉だったのだろう。

世子様の御手付きになったとなれば、それこそ一大事だ。
そんなことにならぬよう、警告したようなものだ。
まかり間違って、勘違いせぬようにと。

ソウォンは一向に落ち着かぬ胸に手を当て、静かに瞳を閉じた。
月下に響く葉音が増すと、ヘスはソウォンの体を片手で抱き寄せるようにし、手綱を握る手に力を込めた。

「これ以上居ては体が冷えるゆえ、戻るとしよう」
「……………はい」

手綱を引き、馬の向きを変えると、ヘスは愛馬の腹を軽く一蹴り。
すると、馬はゆっくりと歩き出す。

どこからともなく数馬が現れ、先導するように前をゆく。
数馬の蹄の音と揺れる木々の葉音、そして馬の息遣いと体を包み込む白檀の香りを感じながら、つかの間の夢を見ていたのだと、必死に自分自身に言い聞かせる。


自宅の裏門前に到着すると、そこにはセユンの姿があった。
人目につかぬように、世子達は静かに王宮へと戻ってゆく。
そんな世子の後ろ姿を見つめ、もうお逢いすることはないだろうと。
淡い想いを断ち切るかのように、兄と共に静かに裏門をくぐった。