金曜日はダブルの地獄だった。
数学がある。体育もある。
10月に入って、急激な気温の変化に体調不良を訴えるコが続出したからか、体育は、「ちょっと風邪気味かも」と訴えるだけで見学が許されていた。
数学はどうかな?ムダな事だ。出席できる元気があればそれで十分だもん。基本、座ってるだけ、なんだからさ。
「体育、休めばよかった」
3キロも走らされてしまった。体育を終えて、バタバタと着替える。急いで教室に移動中、何気なく通りがかった職員室の前には、女の先生を挟んで人だかりが出来ていた。
「できれば経済に行きたいんですけど」
「なんか資格の取れるトコがいいんだけどぉー」
「あたしは3教科を攻める。どこでもいいっしょ」
そんな受験の話だった。夏が終わると、すぐに本格的に受験体制。すぐ横を通り過ぎた女子の先輩の手に抱えられていたのは、国立を始め、どれも難しい大学ばかりの赤本である。クラスに戻れば、まだ全然焦りのない、私達。
危機感無いというか脳天気というか、話題は波多野さんのグループを中心に、次の授業、岩崎先生の身の上話に沸いていた。
〝大学を優秀な成績で卒業〟
〝高校時代は激モテだった〟
〝誰もが王子様と呼んだ〟
塾では女を何人も泣かせている。現在は、付き合っている彼女と誰かを二股中……この辺りになると、何だか怪しくなってくる。前半は女子が、そして後半は岩崎先生を気に入らないとライバル視する男子が、勝手に作っているとしか思えない。
「今日ってさ、岩崎先生の誕生日なんだよね」
波多野さんが、みんなに向って得意気に教えていた。「先生って、いくつなワケ?」 それは誰も知らないらしい。「分かるかも。近所のお姉さんが先生と同中でさ」と、波多野さんは得意気だ。岩崎先生に関してのみ、波多野さんはマユを上回る広報能力を持つのだ。マユがそれを悔しそうに横目で睨んでいる。
先生の誕生日。そんな何の得にもならない情報が、女子の浮かれ気分には弾みをつけているようで。
「それなら、岩崎先生にコクる」
そうなると、男子も黙っていない。
「それなら、岩崎をやっつける」
どちらも数学が普通に出来る人だから言える台詞だな、と思って聞いていた。
10月の席替えで、私は1番前の席になった。1番前といっても外が見える窓際である。ここは眺めも良く、先生からも意外と死角になるから、超お気に入りなのだ。だが、幸運と不運は一度にやって来た。隣の席、温厚な男子が、強引な阿東に押し切られて、席を譲ってしまう。
「んだよ。いいだろ。字が見えねーから」
「だったらメガネかけてきなよ。銀ブチとか似合いそうじゃん」
嫌味なメガネ男子になりそうだ。(萌え?有り得ない)

体育の後の授業は、いつも騒がしい。健太郎を筆頭とする運動系男子は暴れ足りないらしく、その元気を持て余して、無駄に発散させる。バタバタしている所に、チャイムと同時、すぐに岩崎先生はやってきてしまった。
号令は掛かったものの、クラス中はまだまだ雑談で溢れて、収まる様子が無い。あちこちで携帯が鳴り出した。健太郎が大声で喋る声が前の席まで聞こえてくる。岩崎先生はしばらく無言でクラスの様子を窺っていた。号令が終わってからも落ち着かないクラスに向って、先生は不気味なほど何も言わずにダンマリを決め込んでいる。だけど、何処か厳しい視線を飛ばしているように見えて、私は気になって仕方なかった。
「2組の梅田がさ、スタバでコーヒーの匂い嗅ぎながら、紙ナプを千切って食うとか言ってた」
「それヤバい。ラリってる」
「美味しいよ?鼻セレブはね。あ、とりあえず今夜は8時集合でね」
「んじゃ、俺はとりあえず回復系買っとくか」
「んじゃ、とりあえず準ボスキャラ戦で」
「ぎょい」
声の合間にコンビニの袋や雑誌が、あちこちで真横に飛び交った。携帯通話が終わった健太郎は、野球部仲間と近距離キャッチボールまで始める始末だ。
岩崎先生はそれをジッと睨んでいる。これはタダでは済まないかもしれない。最後は、厳しい喝が落ちてきそうな予感がする。鳴り止まないメールの着信音は、岩崎先生の神経を逆撫でしている気がした。冷静に見せて、岩崎先生が今にも爆発しそうに見えて。
それは突然、だった。
岩崎先生はスッと窓際に寄って、窓枠にもたれ、漠然と外を眺める。
「今日は、3人で2次式の復習をしようか」
岩崎先生がニッコリと笑った。不自然な位に穏やかに声を掛けられて、こっちはキョトンとしてしまう。
「……3人?」
言われた事を頭の中で転がしながら、先生の顔色を窺った。先生は、「さっき、走ってたね」と阿東に振る。「5キロも走りました」と阿東は教科書を開きながら、笑顔で雑談に応じた。まるで何事も無かったみたいな自然な流れ。
この時点で3人とは、私と阿東を入れたメンバーだと知る。
先生の思惑が見えない。
「ちょっと!授業始まってんじゃん」
遥か後ろで波多野さんが声を上げた。周りで騒ぐ男子に向って、岩崎先生に代わって喝を入れている。先生にいいとこ見せたい、そんな乙女心かなぁ。
「今口さんって、いつもずいぶん大荷物だね」
唐突に訊かれた。岩崎先生は、この大荷物の中身を知りたいのだろうか。
「これは……」と答えようとした所で、迷って止まった。弁当3人分だと言えば、全部私が喰らうと誤解されるがオチである。だが、私の迷いはそんな事ではない。阿東と並んで良い子になり、岩崎先生と愛想よく話す事に、すごく抵抗があった。岩崎先生に、こっちの返事を待つ様子は無い。すぐに阿東の教科書を取って、パラパラとめくり始める。後ろの雑談は未だ収まらず、波多野さんだけが、「いい加減にしなよ。先生の声が聞こえないじゃん」と声を振りまいていた。
「42ページの例題は済んだよね。飛ばしたっけ?」
こっちが険しい表情で岩崎先生をジッと見ていると、「どうしたの?」と先生は何でもない事のように笑う。
「オトコばっか見てんじゃねーよ。早くページ開けって」
阿東がブスッと刺した。それを聞いた岩崎先生は、クスッと声に出して笑う。その笑顔には、またいつかの、嫌な感じが残った。
名残惜しそうに、いつまでも何かを期待して先生を見つめている女子。
こんな状況は、増々、岩崎先生に変な誤解を植え付けたかもしれない。
そんな訳ない。私は、これ見よがしに教科書をめくった。

岩崎先生は、私の大荷物の理由を本気で聞きたかった訳ではない。単にうるさいクラスに復讐するための生け贄の1人にしか過ぎないのだ。どこか真面目に取ろうとしていた自分がバカみたいだ。先生を恨めしく見ていれば更に誤解を深める。そこからもう2度と、先生を見ないと決めた。
「復習、始めるよ」
そう言いながら、岩崎先生は問題を2つ、黒板に書いた。問題の1つは阿東が、もう1つは当然のように、こっちに降りかかってきた。
「5分で黒板にやって」
無理だ。全然、分かんないんだもん。阿東は自分の問題だけをサッサと解いて机に戻った。後ろを窺うと、阿東の後ろの光野さんが、答えを見せてくれると合図をくれて……うわぁ~神サマ!もう涙出そう~。
小さく頷いてノートごと受け取ろうとすると、
「それってズルくない?」
見ていないようで見ている。先生の視線はずっと窓の外で、こちらの様子は見えていないと思っていたのに。見逃してはくれない先生。仕方なく光野さんにノートを戻した。
黒板前に立ってはみたものの、チョークが全然進まない。
「もういいよ。席に戻って」
その言葉をどこかで待っていた。岩崎先生のため息を背中で聞く。
こんな問題も出来ない、そして人を当てにする、おまえはそこまでの人間だ。
そう、はっきり見下された。そんな様子に見えた。
隣で阿東が、「ダメだなぁ」とヘラヘラ笑った。思いやる言葉というか、そんな感情すら浮かばないらしい。こないだのチョコレートは別人のような気がした。またしても阿東は勝手に飛び出した。得意気に問題をスラスラと解き、ドヤ顔を見せる。