覚悟はしていたけど。
岩崎先生の2回目の授業、まず前回の実力テストが返された。最悪だった。テストの点数は1ケタをかろうじて越えているというもの。自分史上最悪の点数だった。こんな怖い点数、マンガでしか見た事ない。
すぐに教科書に挟んで隠した。あんまり情けなくて恥ずかしくて、もうそこら辺に穴を掘って潜り込みたくなる。答案を全て配り終わると、岩崎先生は手帳のような小さなノートを取り出して、
「桐谷くん、91点」
先生は淡々と、読み上げた。クラスは異様な緊張感に見舞われる。岩崎先生は、「あれ?言ってなかった?」とザワつくクラスを抑えて、「中間も期末も毎回の小テストも、上位は発表するよ」と手帳をめくった。
小テスト?毎回?膝が、ガタガタと震える。
「光野さん、92点」
そこで拍手が起こった。すぐ向こうの波多野さんが、何だか悔しそうに光野さんを睨んでいるのが見える。
「1番は阿東くん、98点。惜しい。よく頑張ったな」
そこで拍手がピタッと止んだ。阿東はそんなクラスの冷たい扱いにも平気な態度だ。いつも通り、口先で笑っている。

発表は岩崎先生の言った通り上位だけに終わって、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、前回の復習だという十分間の小テストに突入した。小テストは、たったの5問。テストの間中、さっきの実力テストの結果の悪さに引きづられて、私はどうにも立ち直れない。今回も最悪の結果を生みそう。
その後も、前回の授業と同じく岩崎先生は教科書をガンガンと進み、ズラズラと問題を繰り出した。あの時のイヤらしい言葉が頭に甦る。ノートを取る気には到底なれない。私はシャーペンを握ったまま、半分死んだようになって1時間をやり過ごした。
「チョコレートが食べ……たい」
授業が終わって、岩崎先生が消えた瞬間、思わずボソッと声に出てしまった。
チョコレートが食べたい。ポッキーじゃなくて、生クリーム風味の優しいミルク・チョコレートが……絵に描いたようなストレス反応だった。
1時間、まるで他所の国の言葉を聞くみたいに、分かったようなフリをして過ごす事がこんなにツライなんて。こんな思い、数学の出来る人には一生、分かんないだろうな。
「ほい」
突然、小さなチョコレートが目の前にサラッと出てきた。……阿東だった。
驚きながらも成り行き上、仕方なく、「う、あ、うん」と貰う。カカオ86%。かなり渋い大人の味に、甘さというより厳しさが迫った。味わう一瞬、岩崎先生の恐怖は飛んだけど、すぐに最悪の試験結果を思い出すみたいな。
気が利いてるような利いていないような。阿東らしいといえば阿東らしいけど。さっすが、油野郎。
オマエが美味しいのは少量だけ。阿東は、やり過ぎてスベるタイプ、油そのままだと思った。可哀相なのはチョコレートかもしれない。わずかな甘さを救いとるように、私は舌の上でゆっくりと転がす。

その後のお昼、いつものランチに、いつもの場所にやってきた。赤、白、水色。3段重ねのランチボックスを並べて、おもむろにフタを取る。
今日のメインは、海苔風味の鶏の唐揚げ。そして、五穀米のおにぎり。サラダは、トマト、レタス、コーンをシーザードレッシングで和えた物。とにかく色合いが綺麗。味だって、家族にはおおむね好評だ。パーティーでも大活躍しそう。本日の卵は、味付け海苔を間に挟んだ卵焼き。マユは、唐揚げにマヨネーズを付けるクセがあるので、それもちゃんと用意した。なのに……マユはサラダをひと口ツマむなり、「もぉ、こっちもお腹イッパイだお~!」と、さっそく選択授業の3枚の宿題をパッと広げる。
「今日は数学だらけ。岩崎dayだぁ~」
どこか嬉しそうに聞こえるけど。
マユはサトちゃんに擦り寄ってプリントの答え合わせを始めた。マユは今日提出の宿題を、朝からずっと内職していたらしい。プリントをちょっとだけ覗いてみると、書いたり消したりで真っ黒で、マユの頑張りと混乱が手に取るように分かる。
サトちゃんがプリントを渡しながら、「言っとくけど、あんま自信無いよ」
これは?これは?あのグラフを図形に当てはめて。
私は数式に溺れる2人を交互に眺めた。
「えっとね、五穀米は初めて炊いたんだぁ。唐揚げもさ、いつもと違う海苔風味だよ」
2人は、私の言う事に、「ふんふん」とか頷きながらも、「あ、ここに代入ね」「最初にグラフ化した方が分かりやすいかも」と食べるひとくちの合間にペンと数式、そして岩崎先生が言った事の色々に心奪われ、ご飯をまともに味わっていないのだ。
何だか悔しくなってきた。
食べること。
それは人間の真剣勝負なのに。
私の中に、ささやかな決意が芽生えた。
明日は、2人の心を岩崎先生から取り返す!