……どうしよう。
誰に手を振ったと誤魔化せばいいんだろう。探して探して、言い迷っていると、男子が、「今口ぃ、健太郎どうすんだよッ」「うわッ!オンナ怖ぇ!」と口々に声を上げた。「うそッ」と、立ち上がってムッとしている波多野さんも見て取れた。マユはマユで、まゆを顰めて……そんな冗談言ってる場合じゃない。ヤバいと思った。アタシそれ聞いてないよっ!ぎゃっ!と、ムッときてる顔だ。
岩崎先生は、「まぁいいけどさ」と、呆れたように笑って見せる。
「違いますっ。それは振りました。振りましたけど、先生には振ってなくて」
何だか要領を得ない。「ヨメご乱心!」「炎上!」と、まだまだ騒ぐ周りを、岩崎先生は、「静かに」と一言で厳しく制して黙らせると、黒板に戻った。その時、先生は鼻先でフンと笑った……ように見えたけど気のせいかな。
急に〝嫌な感じ〟が襲ってくる。何かを誤解したまま、岩崎先生は妙な自信をつけたように思えるのだ。

岩崎先生は教科書の次の例題を黒板にサラッと書いた。私は何事も無かったように、平気なフリで忙しくノートに戻った。岩崎先生は説明を加えながら、例題の隣に新しい問題を並べて書く。こうなると、みんなも冷やかしてる場合じゃないと、恐らく一部の男子女子以外は、問題に釘付けになった。
例題を必死で写していると、さっきのいい匂いが、また頭の上から降ってきた。見上げると、岩崎先生とまた目が合って……今度は笑えなかった。恐怖。今度こそ、本当に当てられるかもしれない。先生の目はそんな確信に満ちて見えた。
私は例題に必死で、問題を全然考えていないのだ。慌てて、忙しくシャーペンを動かした。岩崎先生は、その場を動く気配が全く無かった。岩崎先生は深いため息をつくと、私の頭上に信じられない一言を降り下ろす。
「まるで、マスターベーションだな」
その瞬間、頭の中が、真っ二つに割れた気がした。
怖くて、顔を上げることが出来ない。もう身体中が固まって、それ以上、シャーペンも進まなくなった。
スッと冷たい沈黙があたりを包んでいる。いつも下ネタ雑談だけは聞き逃さず、ヘラヘラと喜ぶ健太郎までもが引いているのだ。次第に遅れて周りからヒソヒソと笑いが起こり、ザワザワと賑やかな声が混じり、男子に突かれて、「やだぁ」と女子の黄色い声が出た所でやっと、クラスの緊張が解けて……岩崎先生は、騒がしくなったクラスを、「静かに」と、また一喝した。
「ノートなんか単なる自己満足なんだから、必死で書いてどうすんの。例題なんか教科書に書いてあるだろ。写す必要ない」
最初っから、そう言えばいいじゃないですか。
もう声にもならなかった。……涙が出そうで。
女子に向って言う言葉じゃない。イヤらしい先生。セクハラだ。恥知らず。
声にならない怒りが、ふつふつと溢れて止まらなかった。

授業が終わるチャイムと同時に、岩崎先生は宿題だというプリントを配ると、黒板をアッという間に消して出て行った。その後を慌てて女子の何人かが追いかけて行く。そこには嬉しそうな波多野さん、マユの姿もあった。それを恨めしく眺めながら、授業が終わった安堵と絶望のため息を同時につく。
うつろに教科書をカバンに滑り込ませたら、グシャッと鈍い音がして、慌ててカバンの中を覗いた。
すっかり忘れていた。
ビスケットは見るも無残に潰れてしまったから。
だから、渡せない。