「今口のおかげで、こいつの機嫌が直った」
「ビスケットで?」
「あと、今口の言う様に、二股をやめたんだよ」
彼女と、よっぽど切羽詰っていたのかもしれない。岩崎先生の様子にホッとした感じが窺える。照れくさそうに笑うその顔は、お弁当をつまみ食いする時よりも、遥かに嬉しそうだった。ビスケットは、世界一美味しかったに違いない。バターのふんわり効いたビスケット。
この味が、先生と彼女の思い出に溶け込んでいく。突き付けられた現実は、意外すぎる破壊力で、私の胸に迫った。
先生が携帯を閉じても、まるで残像のように、映像が頭に残る。
前髪でキラキラのヘアピンと、丸くて大きな、くるんとした瞳。
「見せた事、倉田にはチクるなよ」
「チクりません」
だけど気をつけないと、いつかそのうち、カーヤに覗かれますよ。
「見せたのは今口だけなんだから、絶対誰にも言うなよ」と、先生はしつこく念を押した。
「分かってますって」
プライベートはとことん秘密じゃなかったのか。先生を見ているだけで、何だかイライラしてきた。何となく、もうこれ以上、聞きたくない。
「ところで、僕のメシはまだ?」
知らない人が聞いたら誤解を受けそうな響きがある。「もう、早く来ないと無くなりますよ」とワザと面倒くさそうに試食を手渡した。
「うお」
先生は、ひと口でイッキ食いだ。有難みが無いというか。
「そっか。模擬店はいつかの、あのカレーか」
「はい。トンカツも出しますけどね」
「ト……」
その食材の持つ破壊力に、魔力に、岩崎先生の手は止まったままになる。
その頭の中で、カレーとトンカツが悪魔的に溶け合っている事だろう。その様子を見ながらフフンと見下した。彼女を見せられ、ノロケられ、何だか気持ちが落ち着かない反動も手伝って、こうなったらもっとイジってやれと思った。

「色んなアレンジが可能なんです。まず、とんかつソースがオリジナルで、すっごく美味しいんです。永遠のスタンダード、お馴染み中濃ソースはもちろんですが、オリジナルのソースはカオスです。1つは苺ジャムの甘みが溶け込んでます。もう1つはヨーグルトのクリーミーな風味をお楽しみ下さい。ひと晩煮込んだカレーも出しますからカツカレーにもなりますね。まさに神メシ」

岩崎先生は固まったまま、こっちのプレゼンテーションをちゃんと聞いていない。空ろな目が、増々空ろになっているから、よっぽどお腹が空いていると見た。あやうく吹き出しそうになる。そこに、別の準備で集まっていた2年、3年、模擬店関係なく先生の側ではしゃいでいた波多野さん達が近寄ってきて。
「聞いたら何か、カレーが食べたくなってきちゃった。これじゃ足りないよぉ」
「んじゃ、ココイチ行くか?」
「いやそれ、この手伝い終わったら腹一杯食えんだろ?」
「マジで!?惚れてまうやろー!」
「スッ込んでろ。トンカツって言えば3年だろが」
3年は受験戦争に留まらず、生存競争にも必死のようで。「すみません。今日はこれで終わりです」私は周りにペコペコと謝りながら、
「明日の模擬店に来てください。お手伝いのお礼にサービスしますから」
宣伝も忘れなかった。周囲にレシピ・カードを配って回る。
波多野さんにもあげた。カードを熱心に見て、「今口さんて、こんな絵も描けるんだー」と、仕切りと感心してくれたり。のた打ち回った甲斐があったね。
そこで誰かがドーナツの差し入れを持ち込んで、「あたしカスタード」「俺のツイスト」「どっちも一口ちょーだい!」もう作業そっちのけで大騒ぎ。音楽に合わせて踊っていた男子が派手に転んで「ダセぇっ」「生きるのがダセぇ」
そんな周りの雑音も、岩崎先生には全く聞こえていない様子だった。
相変わらずの空ろな目、手にはトンカチを握ったまま、あさっての方向を見てボーッとしている。彼女の事でも考えているのかと思ったら、
「そこに、温泉卵が欲しいな」と、ぷつんと呟いた。
何だか拍子抜けする。可笑しくなる。現状、先生のイリュージョンな数学頭脳は、温泉卵の乗っかったカツカレーでいっぱいだ。
たかが、卵。
されど、卵。
「温泉卵かぁ」
カレーのトッピングに用意してもいいかもしれない。
卵とカレーを嬉しそうに掻き混ぜる岩崎先生が頭に浮かんだ。
「岩崎先生って、可愛いね」と後ろから誰かの声がして、ちょうど同じ事を考えていたから……そのタイミングというより、先生を可愛いと思うなんて、そんな自分に驚く。
お客として……などと誤魔化して、悪あがきしようとしても無駄だった。
先生のうつろな目線が、自分と繋がったかどうか、それは分からない。
私は小さく手を振った。
素直になる、という本能。ライバルの存在を忘れるな、という理性。
私の心の中で、この2つがせめぎ合っている。
まるで〝どっちかをどうぞ〟と、先生に仕返しされてるみたいだと思った。
もう一度、手を振る。
今度は、ちゃんと気付いてもらえるように。

〝卵〟は水の中、くるくると踊る。
熱を受け止めるうち、次第にその形を変えてゆくのだ。



FIN