「そういう事なら、素直になれよ」
岩崎先生はニッと笑って、私の真横を通り過ぎた。
5時間目の数学。おなじみの10分間小テスト。
今日の問題も、どれも出来たという確信が持てない。返ってきた前回の小テストを見ても、やっぱり結果は悲惨で、1問だけ△が付いていた。これだけの事でも温かく感じてしまう。答案の自分の名前が、見覚えのあるような無いような汚い字で、違和感を覚えた。
『今口メグ』
メグじゃありません。メグミです。
うっかり名前を書き忘れていたらしい。それを、岩崎先生が汚い字で書いてくれたようだ。甘く見逃してくれたという事らしいから、こっちも先生の汚い字は、甘く見逃してあげることにする。ふふっ。
うっかり笑った所を阿東に見られて、欠伸混じりで誤魔化した。

今日のランチタイムに、先生は現れなかった。マユが言う事には、「誰かにチクられたみたいだよ。特定の生徒と慣れ合うなって、倉田先生に怒られたんだって。もう一緒に食べれないよぉ」
……それで、お昼に現れなくなったのか。何だか急に寂しい気持ちになる。
そこまで徹底的にされたら、波多野さんやマユが、文化祭で先生と一緒にご飯を、と策を講じるのも分かる気がする。
放課後は、今日も引き続き、私は補習だった。風の噂によると、残った全員が一定のレベルに達するまで続くらしい。今日は2組の教室に集合となった。2組に入ると、残っていたのは男子が2人だけ。
とうとう、あと3人になってしまったか。
2人の男子は交互に、「面倒くせー」を連発している。「何だよぉ。俺らだけかよー」と1人はふんぞり返って、前の机に足を乗せた。「これも、えこひいきじゃね?」と、私に向かってもう1人が愚痴を言いだしたそこに、
「それは、美味しい思いをしている場合にのみ、訴える事が有効だ」
岩崎先生が教室の後ろからやってきた。机上に乗っかった男子の足を叩き落として教壇に立つ。
「女子はオイシーとか思ってんじゃないスかぁ?岩崎クンとオベンキョー」と、私に向けて視線が刺さる。先生はプリントの最後の1枚を私に渡しながら、「そんな訳ない。不味いカレーだもん。な?」と、にっこり笑った。
何だか小っ恥ずかしくなって、下を向く。
「うわ。なんか、なれなれしー」「あやしー」と2人が口々に囃した。
「10分でやって。教科書を見てもいいから」と先生に突き離されてからも、「テレビが見てぇ」「ネトゲで約束してんだよぉ」と吠えたてる。
「私は大事なメニュー会議があったんだけどなぁ」
気安さで、つい便乗してしまった。途端に、先生から容赦ない厳しい一瞥が加えられる。〝おまえはコイツらと一緒になって、何をウダウダ言っちゃってんの?キャラ違うだろ〟そんな心の声が聞こえた気がした。
先生が無視を決め込むと、もう何を言っても無駄だと言う事は、普段の授業で分かっている。仕方ないと、3人それぞれが色々と諦めて、課題を紐解いた。

1番優しくないのは、円の面積。
妥協を許さない複雑な図形。
真っ直ぐ永遠に延びる(らしい)グラフ。
x軸・y軸も豪華に襲ってくる。
岩崎先生の声をどこか上の空で聞き流しながら……地雷は踏まない、アレだけは言わないでおこうと思ってはいても、頭には次から次へと浮かんでくる。
私って、何でこんなにバカなんだろう。
岩崎先生が解説を始めた。まるで異国の呪文のように聴いている。
a、b、c……世界はバラ色か。
「分かってる?」
「……何となく」
嘘丸出し&自信全く無し、である。
分からない。
分からないのだ。
何が分からないと言えばいいのか、分からない。ここで、私にどう言って欲しいですか?と、岩崎先生の顔色を窺ってしまう。
分かってる?と理解を求められるかと思えば、深く考えないで公式に従え!と、理解をスッ飛ばせと要求されたりで、数学は……まるでイリュージョンだ。
「これ、去年やったっスよ?」
「だったら1年からやり直すか」
「やりたくねーっ!」
「おまえら、卒業したいよな?」
不穏ではあるが、居心地のいい静けさが戻ってきた。男子が何を言っても、先生が頭に来て補習を放り投げるとか、そんな様子は無い。行きつ戻りつ緩やかに、それでも着実に教科書を進んでいる。教科書は1学期を越え、やっと2学期の範疇に辿り着いた所だ。

次の日は、化学室に来るよう言われた。
3組、2組、視聴覚室……そして、化学室。
「段々、開催場所がマイナーになるなぁ」
時間になった。それなのに男子が来ない。まさか場所を間違っているのかと思った所に、岩崎先生が入って来た。「あの」と、こっちが何か言い出すが早いか、「今口さん、僕達、やっと2人っきりになれたね」
先生はワザとらしく、肩に手を置いた。「と言う事は……まさか」
「そう。あの2人は卒業」
そして誰も居なくなった。とうとう、私たった一人になる。
「はい。10分で」
プリント前に、孤独で途方に暮れる私を横目に、今日の先生はパソコンを持ち込んでパチパチとやり始めた。その姿が、いつだったか宿題に悪戦苦闘する私の真横でマンガをパラパラとめくる兄貴とダブる。
その昔、お母さんに言われて、仕方なく受験勉強を教えてくれる事になったけれど……兄妹って残酷だ。「バカ!スカ!クズ以下!」と他人なら訴えられてもおかしくない台詞を容赦なくぶつけてくる。全然、優しくない。
それを思うと、バカに異議を唱える岩崎先生の方が優しいのかもしれない。
「本当は高校行かないで、すぐに料理の修行だーって思ってたんですよね」
あの頃に戻りたいなぁー……と、遠い目になった。
「とうとう現実逃避か」
岩崎先生は、こっちをチラリとも見ずに、「見苦しい」と突き離す。
大真面目な感傷すら、通じない。誰も居ない化学室に、パチパチと、先生がキーを叩く音だけが響いた。お手上げ。頭を抱えてしまう。目の前の問題を考えるより、自分の情けなさばかりが頭を巡った。何でこんなにバカなんだろう。
「もう死んじゃいたい」
「死ぬとか簡単に言うな」
そろそろ泣いちゃおうかな。とばかりに、私は教科書を立てて、自分の顔を覆い隠した。
「まだ1年だろ。今なら何とかなるから」
「そうかなぁ」
「全然、余裕。だから、もうちょっと頑張ろう」
下手な芝居にあっさりと騙されてくれたのかな。先生の声は優しく聞こえた。教科書の端から目を覗かせると、先生は長い足を組んで見せている。いつになく穏やかな表情は、ちょっとだけ王子様にも見えた。
「本当に間に合いますか?こんなんでも?どうやって?」
「とにかく問題を沢山やることだよ」
恐る恐る、「沢山って、どれぐらいですか?」と訊いた。
「のた打ち回るくらい」
「のた……」
もう十分に、のた打ち回っている。これ以上、どう、のた打ち回るの。
今になって後悔が押し寄せる。不勉強の後悔だけではない(それが殆どだけど)。岩崎先生を、お金を稼いで、いい思いをしたいだけの人、と決め付けた事への後悔だ。自分を相手に悪戦苦闘している先生を見ていると〝いい思い〟まず有り得ない。私のようなバカな生徒がいる限り、岩崎先生の学校修行は前途多難である。この補習は先生のお給料になるのかな。思えば、小テストの問題作成も採点も、時間外だ。
この補習は、私自身の為のもの。
自分が苦しいのは、のた打ち回るのは、当たり前の事。
だけど先生は、他人のために苦しい思いをして、のた打ち回っている。
普段の暮らしでは見栄を張る余裕もないほど、岩崎先生は頑張っているのに。
それなのに自分は先生に向かって、オヤジ臭いとか、終わってるとか、ハゲるとか、キツいとか……言ったり思ったり恨んだりしまった。これでは岩崎先生が報われない。不味いカレーだなんて、あんな事、言わなきゃよかった。
「その第1問だけど」

ふと、先生は指で問題を示して、
「見た目どんなに難しそうでも実際は長いだけで何の面白味もない、すっごく地味な因数分解だから」
まるでいつかの、意趣返し。
「地味でも長くても、それが小テストから補習まで連続で続いても、今口メグミは、何とか我慢して解いてくれ」
こっちの肩をポンと叩く。「これ使えるな」と笑った。
似たような呪文、ぢゃなくて、因数分解が……どっかにあった気がするけど。教科書のページをめくって探してみる。先生は咄嗟に、ページに指を滑り込ませた。「これ。それそれ」と教えてくれて、見ると殆ど同じような問題だった。
まるで書き写しに近い作業になって、こうなってくると、まるで見離されたみたいに思う。
面倒な生徒を早く片付けたいのかも。
急にお腹のあたりが切なくなった。決して、お腹が空いているのではない。
「今口メグミ、君って結構な人気者なんだな」
また。唐突に、岩崎先生に持ち上げられる。今日は、阿東も誰も居ませんけど。
「倉田なんか、今口のメシは何でも美味いって、どこでも吹いてる。あれって結構えこひいきだよな」
聞けば、いつかの学食での出来事の後、倉田先生は岩崎先生を叱咤し、成績の話は隠れてやるようにと訥々と説教してくれたらしい。それで岩崎先生は、あんなに素直に謝ったのかと合点がいった。倉田先生は本当に良き理解者だ。いつか美味しいおでんを届けよう。
「ゲンコツなんて、いまどき」
チッと舌打ちして、岩崎先生が悔しそうにキーを叩く。思わず、こっちの笑みがもれた。いい気味だ~。
「で、阿東くんとは、あれから進展あった?」