ブルブルと震えた。先生の何処までも続く自信過剰、それに言い返せないまま流されて……悔しい。
「どうしてそんな恥ずかしい事、スラスラ言えるんですか。それが信じらんないです」
「そっちこそ。よくもグチグチと。それも倉田なんかに。それが信じらんない。おまえのおかげで恥かいた。卑怯じゃないか。文句でも何でも、僕に直接言えばいいだろ」
そう言われたら確かに、卑怯な手口だったかも。
もしアユミが、私の味付けが濃いとか薄いとか、別の誰かに告げ口したら、どうして私本人に教えてくれないのかと悲しくなる。
でも!
「岩崎先生はキツイから……怖くて簡単には言えないんです」
「全然、怖がってる態度に見えないけど」と先生は疑う目でこちらを探る。
「まさか、いつかの授業をまだ根に持ってんの?そりゃ厳しくする事だってあるよ。倉田だってそうだろ」
「倉田先生とは違います。岩崎先生は厳しいっていうより……キツイんです」
「どう違うの」
「どうって、それは」
先生は腕組みをして、こちらの答えを待ち構えていた。さっきとは逆の立場である。ここで引き下がる訳にはいかない。
その時、ありとあらゆる食材の波が頭の中、一気に襲ってきた。
肉も魚も野菜もドロドロ。グツグツ煮込んで、まるで闇鍋。
その匂い、色、あらゆる要素で腹ペコの食欲を暴力的に刺激しておきながら、一口含んだ途端、その魅力をいっきに奪う〝残念感〟が襲う。
先生はポッキー・チョコレートじゃない。
先生は。
先生は。

「先生はまるで……見た目どんなに美味しそうでも、実際は辛いだけで何の味も無い、すっごく不味いカレーです」
言いきった瞬間、まるでブン殴られて眩暈がするみたいに岩崎先生は目を閉じた。かなりの破壊力でパンチが効いたように、頭をグラリと後ろに揺らして。
「お……え?僕の事?」
私は大きく頷いた。
「マ、マズい?僕が?」
また大きく頷いた。
「で、カレーが何だって?」
一拍置いて、深呼吸して。
「カレーは、野菜も肉も何でもありです。スパイス以外にも、チョコ、ジャム、牛乳、コーヒー、お醤油、思い付く限り色々な脇役があります。何を混ぜてもどうにか食べられるからって、ついつい暴走してしまうんです」
いつもの……いや、いつもより暴走気味のイマグチ屋が顔を覗かせた。
「マズくてもキツくても、それが3日連続・朝昼晩で続いても、私は先生の授業を我慢して食べました」
岩崎先生は難しい顔で、もう1度眼を閉じた。
「授業を我慢……食べた……」
ウッと呻いて、まずます厳しいシワを眉間に寄せる。
「おまえが一体、何言ってんのか」
ですよね。
「分かんない、ですよね」
「いや何となく、酷い事を言われたらしいとは……分かるんだけど」
先生は、いつになく気弱な態度で、
「結構パンチ効いてる。言ってる事は、おまえの方がキツくないか?」
岩崎先生は凹まない人だと思っていたので、これはヤバいんじゃないかと慌てた。何とかフォローできないかと脳ミソを働かせて、そう言えば!と荷物からビスケットを取り出して。
「あ、カレーって言えば!」
突然、弾かれたように、岩崎先生が大声を上げた。
「え……」
何かと思えば、夏休みに学校で食べたというカレーの話になった。
「あれ僕も食べたんだけど。倉田にもらってさ」
それは、私が作ったと教えたら、「そうらしいな。倉田から聞いたよ」と、こっちがビックリするぐらい勢いよく身を乗り出す。岩崎先生の元気が急に戻ってきて驚いた。それ以上に驚くのは、いつかのお客さんが寄りにも寄って岩崎先生だったなんて……じぇじぇじぇ。
「あれ、最高に美味かった」
先生は、何処か遠い空を見つめている。ここで、そんな事で負けを認めるのが悔しいと、私には面と向って褒めたくないのかもしれない。
「あれは、ちゃんと野菜の旨みがあったし」
「当然です。ちゃんと炒めて、しっかり下味も付けましたから」
「あの細かいのって、肉じゃないだろ」
「分かりますか」
私は身を乗り出した。「サバです。サバの水煮です」
「あー……」と、先生は、天井を仰ぐ。「でも全然生臭くない。マジ美味かった。欲を言えば……もうちょっと食べたかったかな」
ああ、やっぱり。
私はガックリと肩を落とした。お腹いっぱい食べてもらう事。これは私のポリシーだ。腹八分とよく言うが、そう決め付けて食べ始める食事は全然楽しめない。結果的に腹八分になっても、それはそれでいいけれど。空腹をはっきりと意識して、頭空っぽにして、どっぷり味わって欲しいと願っている。
「それは……すみませんでした」
ポリシーに反したと、ここは素直に謝った。突然の低姿勢に驚いたのかもしれない。岩崎先生は、「そんな事で泣くなよ」と急に慌て始める。
「泣いてませんよ。ただ申し訳なさ過ぎて」
「まぁ、あれは僕が突然もらっちゃったからさ」と先生は慰めてくれたみたいで。だけどそれを言えば、急に飛び入りした野球部OBには、お替りまで十分にあったのだ。岩崎先生に、えこひいきだろ!と責められても文句は言えない。
「野球部には足りたの?」と聞かれて、「はい」と答える。
「今口も、ちゃんと食った?」
「……はい」
ご飯の足りないお客を差し置いて、料理番はちゃっかり腹一杯食べた。
岩崎先生はそれを聞いても、「ならよかった」と怒りはしなかった。
可愛いとか萌えとか、マユほど、そこまでは心を許せないけれど……先生は、お客として、嫌な人じゃない。初めて甘く、位置付けた。
あの日の足りないカレーのお詫びに(へコませてしまったお詫びも入れて)、しぐれ煮弁当は丸ごとあげた。ビスケットもあげてしまった。
「これは食いながら仕事できるよ」と、岩崎先生はホクホク顔である。

その日、成り行き上、帰り道は途中まで岩崎先生と一緒になった。
マユとか波多野さんとかに見られたら攻撃されるかもしれない。辺りを窺いながら歩道を行く。外は、すっかり夜。あちこちから晩ご飯の匂い。
お腹が空いた。
マジ、爆空き。
それよりも、何か話さなきゃ。マユほど先生のプライベートに興味も湧かないし、波多野さんのようにファッションに詳しくもない。頭の中は、話題を探してさまよった。
ふと思い出して、
「あの、桐谷くんの言ってた、モテたかったら予習しろって、どういう事なんですか」
いつか聞こうとして、聞けずにいた事である。
「予習をある程度やっとけば、当てられても自信満々で答えられるじゃん。そういう男子って、最高にカッコいいと思わない?」
頭には、ドヤ顔の阿東しか浮かんでこなかった。「思いません」と即答。
「今口もさ、ちゃんと予習やって来いって。当ててやるから」
「いいです」
そこで強引に話題を切り替え、いつか倉田先生が洩らした暴れ者話を切り出した。若い先生をプールに突き落としたとかいう、昔の話。その先生とはどうなりましたか?
「プール?ああ、耳の話か」
耳?
「倉田は大袈裟だから、鵜呑みにすんなよ」
穏やかな結末を聞きたかった、私の期待は大きく外れた。
聞けば学生時代、岩崎青年は気に入らない先生をプールに突き飛ばした後、当然、職員室に呼び出され、先生に囲まれてガンガン説教され、突き飛ばした若い先生からは、「チャラチャラして学校に来んな!」と右耳のピアスを指摘され、頭を叩かれて頭にきた!とキレた勢い、自分でピアスを耳から引き裂いた。
「どぴゅーーッ……って感じ」
思わず自分の両耳をふさいだ。聞くだけでも痛い。今夜は、トマト・ピューレの海にうなされる!
「おかげで、痕が残った」
そ、そういうことか。
「耳は痛いって言うより、カーッと熱くなった。かなり血が出たから、倉田もすんげービビってさ」
岩崎先生は高らかに笑うけれど、こっちはそんな詳しい実況中継、もう聞きたくない!
「今の教頭の机あたりかな。あの辺が血まみれで」
「もももももう、いいです!」
「ホレんなよ」
「無い無い無い。無いですっ!」
先生は、くくく、と可笑しそうに笑った。
血みどろスプラッタな情景が浮かんで、気が遠くなる。倉田先生は、この話をどう味付けして、これ以上に、大袈裟にできるというのだろう。プライベートは絶対に秘密でお願いします!と、そう思った矢先から、
「あ、あのう、先生は本当に二股してるんですか?」
話題をグッと柔らかい路線に切り替えた(?)。とはいっても、笑顔で聞くことでもないけど。
「どうでもいいだろ、そんな事」
「ハイ。そうです」
話題が変わった事にホッとして、私はあっさり引き下がった。それを先生の方が、「してないって!」とイライラしながら蒸し返す。話に決着がつかない事が嫌だったのか。それとも二股している最低ゲス男と思われる事にプライドが許さなかったのか、どっちか。
「仕事と二股してるって、僕が一方的に責められてるだけだよ」
岩崎先生、自らカミングアウトだった。
「そういう事ですか」
二股の噂は、あながち嘘でもなかったという事だ。
「先生」
私は立ち止まる。
3人のランチタイムが浮かんでくる。私は彼女さんの気持が分かる気がした。こっちは真剣だから、相手にもそれを求める気持ち。
「二股はいけません。気を付けないと、彼女さんに真剣味を疑われますよ」
「だから、二股してないって」
……してます。
「それは、彼女さんと会ってる時に、気持が集中してないって事です」
岩崎先生は押し黙った。痛い所を突かれて、言い返す言葉を失ったように思えた。岩崎先生は先生なのに、大人なのに、ウチのお兄ちゃんと大差なく感じてしまう。大人なのに、頭良いくせに、何でこんな事が分かんないんだろう。
「先生、もう結婚しちゃえばいいのに」と背中を押してあげたのに、
「おまえに関係ないだろ」馴れ馴れしい、とピシャリとやられた。
岩崎先生は全く反省していません。
私は倉田先生にチクりたくなった。
先生のくせに、プライベートが全開。
そして……ずっと〝おまえ〟って言ってるよ。