サトちゃんとマユにはメールした。
『ご飯、炊き忘れちゃって、今日のランチは無しって事で。ごめん』
ゆうべから、何かを作ろうという気が起きなかった。
晩ごはんはチキン・ラーメンに卵を落としただけ。朝ご飯は、卵掛けご飯。
卵。卵。卵。もう、かなりの重症。
ランチタイムに入ってすぐ、『あたしら5組に居るから、良かったらメグもおいでよ』と、マユはそんなメールをくれたけど、到底行く気になれなかった。
今日は、マユの岩崎あるあるを普通に聞き流せる自信が無い。それならと、今日は久しぶりに学食に来てみた。たまには、こういう日があってもいいよね。
学食の真ん中あたり、テーブルでソバをかっ込むウチの担任が居た。その隣に書類を抱えて立ち、何やら話し掛けている岩崎先生が居て……逃げようと思った。だけど、「どうして、私が逃げなきゃいけないの」
見ていると、いつもの波多野さんのグループを中心に、賑やかな面々が大集結。みんな何を食べる事も忘れて、岩崎先生を囲んで談笑している。
こうしていつの間にか、学校ごと根こそぎ乗っ取られてしまうんだ。

学食のオバちゃんに向けて、「うどん、下さい」 勢いでコロッケも付けてしまった。うっかりお醤油を掛け過ぎて、コロッケが真っ黒になる。
本日のランチ。炭水化物と塩分と油。体に悪い極悪3兄弟。
なのに、たまに凄く、そそられる。卵は……無かった。
ちょうど、定食を受け取っていた倉田先生に遭遇した。
「本日のイマグチ屋はお休みか」
2人のお弁当作りを知っている倉田先生は、時々フザけて私をこう呼ぶ。本当の理由は言えなくて、「ごはん、炊き忘れちゃいました」と答えた。
「そりゃ、一大事だなぁ」
成り行き上、倉田先生と同じテーブルについた。
「なんか、あの辺、込んでるなぁ」
「そうですね」
〝あの辺〟を見ることもなく答えた。〝あの辺〟からは、まだまだ賑やかな声が聞こえている。
「岩崎の人気って凄いよなぁ」
「そうでもないです」
真っ黒コロッケをザクザク潰した。本当はうどんのおつゆに入れたい所だけど。
ここで倉田先生と、間近に迫った文化祭の話になった。3組の模擬店。メニューはいまだ未決定。
「岩崎にも手伝ってもらうんだろ?」
はぁーと思わず、ため息をついてしまう。
「岩崎と、何かあったか」
「ちょっと色々難しくてというか。なんか私って、あの先生にバカにされてるっぽい感じがしますけど」
優しい声に促されて、倉田先生なら分かってくれると思えて、つい本音が出てしまった。
「誰がバカにしてる?」
その重苦しい声は頭上から響いた。
振り返ると、岩崎先生が真後ろに立っている。それは今まで見た事も無い、落書きを怒られた時よりも冷静で、凍りつくような冷たい目だった。
血の気が引いた。自分はもちろん、倉田先生も慌て始める。倉田先生は険しい表情の岩崎先生を窺いながら、「もう行くのか?午後は選択?」と話題をハズして、何とか雰囲気を飛ばそうと頑張っていた。
「ここは、ちょっと仕事にならなくなったんで、移動します」
陰険な表情が一変。岩崎先生は、もうニッコリと笑った。倉田先生に気を遣ったという事だろう。簡単に切り替われる事が、私には信じられない。
倉田先生に「お昼は?」と聞かれて、岩崎先生は「まだです」と答える。
「どっかで何か食べながら仕事してきますよ」と笑った。
どっかの何か。
お弁当も料理も、そんな程度にしか思われていない。あれだけ、ガッツリだったくせに。
「……なんか、ご飯が可哀相だ」
抜けた力の勢いで、ブスッと出た。それを岩崎先生は聞き逃さなかった。
「今口は、メシの気持ばっかり考えてんだな」
「私はいつだって、ご飯を真剣に考えてます。それだけです」
「それの半分でもいいから、真剣に予習してこい」
「いい加減な先生に言われたくない」
「いい加減な訳ない。こっちだって真剣だよ」
「そういう割には、食べながら仕事ってなんですか。それってご飯もちゃんと味わってないし、仕事だって頭半分で真剣とは言えないでしょう?どっちも中途半端って事ですよね」
頭にはサトちゃんとマユが浮かんでいた。まるで2人に言えない本音を岩崎先生にぶつけている。
「中途半端じゃない。真剣なのはこっち。仕事の方だ。決まってんだろ」
抑えようとした倉田先生の手を越えて、岩崎先生はキッパリと言い放った。
その目には、怒りと意地が見える。こんな身近で、私を相手にここまで感情的になる大人を初めて見た。

「学生の仕事は勉強」
岩崎先生はいつかのように、冷静に、世界共通の常識だと言わんばかりだ。
「おまえは仕事そっちのけで、オマケにばっかり夢中になってる。だから成績が落ちるんだよ」
ガツンと殴られたような気分だった。成績が落ちたと、ひけらかされた事にも腹が立って……だが、それ以上に、料理をオマケ呼ばわりされた怒りが身体中を巡る。〝料理なんかオマケ〟と岩崎先生の本音がはっきり見えた。
「メシと仕事を一緒にすんな」
それを聞いて、私は思わず立ち上がる。
「次元が違う、そう言う事ですか。やっぱりバカにしてるじゃないですか!」
悔しさが込み上げて、次第に目もとが熱くなる。泣くもんか。何か言い掛けた岩崎先生は、今度は倉田先生に強く止められて押し黙った。
「先生に向かってそういう態度ってありえないんだけど」と、不意に聞こえて、振り返ると波多野さんだった。その波多野さんの後ろで、困惑しているアユミが目に飛び込んできて、そこで我慢出来ずに、涙がこぼれてしまった。
倉田先生は、まるでなだめるように、私の背中をトンと叩いた。そのまま手を引っ張られて、ストンと座る。岩崎先生は腕にブ厚い課題を抱えたまま、何かを探して、それをめくり始めて。
倉田先生に、「凄い量だな。それ何だ?」と聞かれて。
「選択の課題です」と、岩崎先生は淡々と答えて。
「採点が全然、終わらなくて」
岩崎先生は、余裕でもう笑っていた。
頭上、まるで何事も無かったかのように2人の会話が流れている。
私は静かに涙を拭いた。大人同士の冷たいくらいに冷静な決着を見たと思った。大人でもなく、気持に決着もつかない私は、座り込んだテーブルの下で自分の手をギュッと握りしめる。
ふと額に気配を感じて、顔を上げた。
「おまえに仕事やるよ」
出来るもんならやってみろ。
プリントを突き出した岩崎先生の目は、いつかのように挑戦的に見えた。
もう1度、涙を拭く。