最後に残ったのは6人だった。波多野さんは、課題が終わって喜ぶカーヤと共に、もがく私を尻目に鏡ばかりを覗いている。岩崎先生が、ちょこちょこやってくる期待感で何だか嬉しそう。
そこへ、岩崎先生が教室に入ってきた。いつもの好い匂いが一緒にくっついてきたので、すぐに分かる。波多野さんは慌てて鏡をしまうと、本を広げた。
ワタシは勉強中です、そんな演出ですかぁ。
岩崎先生は、健太郎を始めとする男子から、ひと通り回って個々に解説を始めた。程なくして、順番が私に回ってきた。「何処で止まってるの?」と聞かれて、「最初からです」と正直に答える。
「え」
先生は、あまりに突き抜けた期待外れに呆れて……自分でも、あんまり情けなくて、苦し紛れに薄ら笑いした。そこで突然、岩崎先生の表情が変わった。
「何だ、これ」
ヤバい!
ササッと手で隠しても、間に合わなかった。時間を持て余してプリントの隅っこに、ふなっしーをちょこちょこと落書きした所を、岩崎先生に見つかってしまったのだ。
「余裕だな」
不気味な沈黙に、周りも静まり返った。岩崎先生の顔を直視できない。
突然、岩崎先生は机の上のプリントを跳ね除けた。シャーペンもつられて一緒に吹っ飛ぶ。突如襲ってきた強い一撃に、一瞬で血の気が引いた。
本気で、殺されると思った。
周りに集まっていた全員、健太郎も阿東も、波多野さんまでもが、その場を引いて固まっている。
「舐めてんのか」
ギュッと、握った手に力を込めた。どんなに我慢しても岩崎先生には通じない。我慢を理解してくれるどころか、それ以上の我慢を強いられる。
これだけ怒られても、それなら問題を頑張ろうという気持ちにならない。何とか逃げ出そうと、そればかり考えてしまうから。私は……熱に弱い。
「その目は何。幼稚な反抗期。中2病。まだ続いてんのか」
岩崎先生は、落ちたプリントとシャーペンを静かに拾った。険しい顔で内ポケットから赤ペンを取り出し、問題の横に公式らしい数式をいくつか書いて、何も言わずにそれを寄越して、次の男子に向かった。
最後に教壇に立つと、「出来た人から職員室に持ってきて」と言って「無関係なヤツは邪魔だから帰れ」と阿東や波多野さん達を戒めて、教室を出て行った。
波多野さんも、そう言われては仕方ないと荷物をまとめている。
「ちゃんとやらないクセに自分の事バカとかって、先生に怒られて泣いちゃう子が塾にも居てさ」
岩崎先生にとって〝バカ〟は地雷、らしい。「あ~あ」と残念そうに波多野さんは出ていく。私の料理を陰で利用しておいて……こんな時に、気休めとか励ましとか、一切無かった。阿東の方が意外と思いやりがあるのかもしれない。先生に帰れと言われても、健太郎のプリントを見て、殆どが役に立たないウンチクではあるが、解き方もちゃんと教えている。教えてやろうか?と言ってくれた阿東を、私は邪険にしてしまったのだ。もう教えてはくれないだろう。諦めて、先生の残した真っ赤なプリントに目を落とした。

ヒント。この公式。
これを使えということだ。それだけは、どんなにバカでも分かる。
だが、公式を使い始めた側からムクムクと色々な疑問が頭をもたげ、その先どうにもシャーペンが進まなくなってしまった。
その問題は途中で諦め、さっさと別の問題に移ってもそれは続いた。健太郎を含め残っていた2人は出来たらしく、職員室に向った。健太郎の優先順位は、何より部活が1番なのだ。阿東も何か嫌味を言いたげでは有りながらも、帰っていった。ため息が出た。
時計はもう6時を回り、独り残った私を見て岩崎先生はぐったりと教室に入ってきた。もう怒っていない様子に見えてホッとしたけれど、どれを見ても中途半端な回答を見て、先生は「うーん」と唸り、前の椅子に腰掛けた。
「どうしてここで止まっちゃうわけ?」
納得いかないと腕を組んだまま、私と問題を交互に見る。
「あのー……」
恐る恐る、私は尋ねた。
「この公式を使うって、それは強制ですか?」
「は?」と先生は不機嫌そうに、「何でそう、悪く取るの」
「公式はこれで間違いないって言ってるんだから、素直に使えばいいじゃん」
「その前に、どうしてこの公式はこうなるんですか?誰が決めたんですか?」
私はあくまでも真面目に訊いたのに、岩崎先生は、さらに困り顔だった。
「何でそう、ムダな事ばっかり」
「ムダじゃないと思いますけど」
「歴史じゃないんだから誰が決めたかなんて試験には出ないし、公式が何でこうなるかって……そんな事は授業でやっただろ」
「えー……?」
ノート出せ。
ホラ書いてる。
やりぃー。
「良かったな。初めてノートが役に立って」
先生は、私の頭をポンと叩いた。家で1度も開いた事のないこのノート。それは先生のアリバイに貢献してしまった。なんて屈辱。
「こういうの、今みたいにパッとすぐ答えらんなくても教師ってなれますか」
本気で知りたくて、大真面目に訊いてみた。
「なっちゃったよ。悪かったな。パッとすぐ答えらんなくて」
嫌味で言った訳じゃないのに。
「今口は余計な事ばっかり考えすぎる。だから問題が進まないんだよ」
先生何だかイライラしてる、彼女とケンカでもしたのかな?事実、そんな事をぼんゃり考えていた時だったので、まったくその通りで、先生凄い!と思った。
てゆうか、実は先生が面倒くさくて答えたくないと、誤魔化しただけじゃないかなぁ?……言えなかった。岩崎先生が、なんだかいつも以上にイライラして見えたからだ。これ以上、気分を害してはいけない。マジで殺されるかも。
バカな生徒のおかげで帰れない。先生はきっと、学校修行を後悔している。
岩崎先生は1度時計を難しい顔で睨み、別のプリントを出して「こっちの方が易しいから先にやってみて」と赤ペンで横にいくつか式を書いて寄越した。
3x2−x
a(x−y)+y−x
「まだやんのかよー……って、露骨にそういう顔するな」
やっぱり先生に心を読まれている!
その時、外の廊下から男子の声が聞こえてきた。見ると、同じクラスの2人組。
その1人は阿東である。目が合った。まだ残ってんのかよ、バカだなぁーと聞こえた気がする。私だって心の声が読めるのだ。
プイと顔を背けた。男子はなかなか立ち去らない。窓から顔を覗かせて、
「うお!センセ、こんな所で調教ですかっ。女子にお仕置きっ」
こういうの、すっごく気分悪い。阿東ですら、いくら友達でも聞き流す事ができないらしく、「おい。やめろや」
「あ、あれオマエのクラスの生け贄ちゃんだ」
騒々しい。先生は眉をひそめたその表情のまんま、「今口は人気者だな」
まるでこの騒々しさは、私のせいだと言わんばかりだった。こっちは新しい課題を前に、ひたすら頭を抱える。阿東も男子も、まだ居る。
「センセ、こないだ制服の女と居るトコ見た!」
「フツーに、どっかの女子だろ」と阿東がツッコミ役らしい。
「いやいや、腕組んでたし」
「それは制服の警官に捕まってるとかいうオチだろ」
どうでもいい漫談を聞かされるのはツラい。さぶい。まだ居座るか。しつこい。そのうち、出て行け!と先生のお怒りが炸裂するかもしれない。先生は2人を無視して、「1人で出来そう?」と、私に訊いて来た。
「そうでもないです」
「だったら、あそこの優秀な友達に聞いてもいいけど」
クラスで1番、成績優秀な阿東。それに比べて出来の悪い今口メグミ。
先生の中では、そんな位置づけなのかもしれない。私は、今一度、問題に目を落とした。先生の書いた公式や問題は、どれも何処か見覚えのある、言い換えればそれぐらいの記憶にしか残っていないものばかり。
「ねぇ、今口って、マジで佐伯の彼女?付き合ってんの?」
思わず、男子を睨み返した。
さすがに気が散ると感じてか、岩崎先生は男子に向かい、「おまえらうるさいよ。オゴってやるから、ジュース4本、買って来て」と、声を掛け、お金は何故か阿東に手渡した。頼まれた男子と、お金を持った阿東。成り行き上、2人で出て行ってしまって……また、岩崎先生と2人きり。

今度は、微妙に嫌な感じが襲ってきた。
単に追い払うだけでなく、何故ジュースまでオゴるの?
それもだけど、この展開は、ワザと仕組んだように十分疑えるのだ。そこにあるのは決してイヤらしい妄想なんかじゃない(ありえない)。それは、怖しい説教前の静けさに似ている。落ち着かない雰囲気、私はガチャガチャと文房具を漁って、沈黙を飛ばした。
岩崎先生は静かに口を開く。
「今口はさ、夏休みって、どうしてた?」
夏休み?今頃?何だか唐突だな、と思った。
「どうって」
頭には野球部の合宿が浮かぶ。
「今年は海とか行ってないですけど。行けたとしても、私泳げないから。あとは部活のお手伝いとか」
ふと、野球部の皆が美味しそうにご飯を食べる様子が浮かんで頬が緩んだ。
岩崎先生は途中で話を遮ると、
「塾はどこに行ってるの?」
「塾ですか。今は何処にも行ってないですけど」
高校受かった途端に、もう必要ないと塾は辞めました。それを言えば、岩崎先生にはそれが信じられないといった様子で、
「良かったら、僕の塾を紹介しようか」
そういうことか、と落ちた。
「別にいいです」
塾に行き始めたアユミも、光野さんも、マユも、こんな風に誘われたのかなぁと、ぼんやり考えた。
「今口は1学期に比べて、ずいぶん成績が落ちたよな。一体どうしたの」
手が止まった。遅れて今頃やって来た追試の説教だと分かる。
「バイト始めた?部活とかはやってないんだよね。まさか彼氏が出来ちゃったとかで、浮かれてる?」
岩崎先生に次々と畳み掛けられ、最後はニッコリと笑われた。いつかの納得の行かない気持が、また襲ってきた。誰かを好きになるのは、真剣勝負。浮かれるような余裕なんか無い筈だ。マユも。波多野さんだって。
岩崎先生をキッと睨んだ。
「成績が落ちたのは……それは先生のせいです」
「先生って、前の?」
「岩崎先生です!」
そこへ、阿東達が戻ってきた。異様な雰囲気を察して、2人の浮かれた声がピタッと止まる。そして阿東の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「今口、先生にコクってる?」
「ちょっと……何いうの。もう」
呆れて物が言えない。岩崎先生は、いつかみたいに余裕で笑って、
「あ、そういう事?それなら余計に頑張らないと」
「そ、そういう事って何ですか!」
岩崎先生には妙な誤解に加え、おかしな自信が溢れている。生徒の成績の悪さは、自分以外の教師のせいだと頭から思い込んでいた。男子の冷やかしに、困りもしなければ恥ずかしいとも思っていない。誰かを好きだという気持を、とるに足らない次元の低い事だと考えているからだ。だから、平然と笑いながら〝そういう事なら余計に頑張れ〟とか言える。
「前の先生だったら数学だって出来てました。追試だって無かったのに」
事実だった。
「数学は……私、倉田先生がよかった」
涙が溢れそうになって、私は課題をそのままに、視聴覚室を飛び出した。