5時間目の後の放課後は、光野さんと約束があった。
レシピブックを持ち込んでのメニュー会議。今日から文化祭一色。
この8年間書きためたレシピブックを取り出してパラパラとめくったら、「あ、これ絶対に美味しい。ソーセージのチーズ掛け。グラタン風」とサトちゃんが横からレシピブックを覗きこむ。「ねー」と隣のマユがサトちゃんを揺さぶると、
「先生さ、こっちの耳だけ大きなアザがあるんだけど。知ってた?」
本日も、また。
「それさ、女に噛まれたんじゃない?」とサトちゃんは冷静に聞き流した。
「親に殴られたんじゃないの?」と、私も冷静にフッ飛ばした。
珍しくもない。
「ウチの兄貴だって何処のケモノ仲間に噛まれたか知らないけれど、傷の1つや2つはあるもん」
「え?先生がケンカぁ?ありえなくなくなくなくない?」
高校時代その手の部活はやってなかった、ジムにも通っていない、だけど筋肉はあったような気もする、と。全部マユからの情報である。
「それどうやって確かめたの?」
「こないだ触ってみたっ。きゃ」
こんな調子で、今日のお味噌汁を注いでいる間も、まだまだ続くのだ。
時にはチクッと刺したくなる。
「あの先生、性格悪いもん。いつか絶対ハゲると思うけどな」
ムッとくるかと思ったけれど、マユは意外にも、「やぁだー!」と大ウケだった。サトちゃんも、「それ爆弾だワ」と転げ回って笑う。バーコード頭の岩崎先生を想像して、しばらくはゲラゲラとストレス解消させてもらったけれど。
例え姿を見せなくても、岩崎先生の話題で沸騰とは。
先生はとことん、私達の間に割って入る気なのだ。
「今日の味噌汁は具がたっぷり。ジャガイモと玉葱の黄金コンビだよ」
岩崎あるあるが止んで、マユの目はお味噌汁に釘付けになった。
ジャガイモは、ほろほろと崩れる寸前の熱の入りよう。タマネギは煮込んで透明。それは味噌スープに甘みと、とろみを加えるのだ。これをご飯に掛けたら、猫メシに神降臨!メインのミートローフにも負けない魅力がある。
無我夢中、マユとサトちゃんはご飯に襲いかかった。
うん。こうでなきゃ。人間の本能だもん。

そして……その後の、数学。
〝ハゲ疑惑で、こっちの勝ち点1つ〟
そんなドヤ顔で岩崎先生を迎えた、5時間目。
いつものように小テストの全問正解者が発表され、いつもの〝神3〟の名前が挙がる。阿東がいつものようにヘラヘラと笑っていた。ドキュン、とばかり、今日は教科書に突入してすぐ、私は当てられてしまって。
いつも通り、予習なんて全然していない。答えに心当たりも無い。想像力が働かない。とりあえず考えていると言う振りで途中まで書いた。そこでチョークが止まってしまった。勝ち点1つがどんどんマイナスされていく。
「おしまい?」
岩崎先生の投げやりな声が、背中に刺さった。
「ダメです。出来ません。人生おしまいです」
「何開き直ってんの」
「進学するとしても、数学では受験しません。だからいいです」
「てゆうか、この調子だと進級だって危ういだろ」
ですよね。
バカなこと言ってる。十分、分かっている。がっくりと肩を落とした。
「みんなさ、分かってると思うけど、僕は授業態度を評価に入れないよ」
「ええー!」と周りから非難の声が上がった。
「どんだけ~?」とか言ってる場合なのだろうか。授業態度が評価にあって一番困るのは、今もマンガを読んでいる健太郎でしょ。
「評価は、毎回の小テストと中間と期末。これだけで判断する。もう決めてる」
厳しい現実を突き付けられて、全員が黙り込んでしまった。
「みんな、ちゃんと勉強しよう。学校に払ったお金が勿体ないだろ。佐伯くん」
名指しで慌てた健太郎はマンガを取り落とした。
「そう思わない?」
岩崎先生のその問いかけは、今度は真っ直ぐ、私に向っていた。
酷いことを言われた……ような気がする。お金が勿体ないとは1番胸に響いた。1番言われて痛い事だ。岩崎先生から促される前に、自分から席に戻った。どう叩いても、出来ないものは出来ないんだから。
授業が終わり、去り際、岩崎先生はクラスの何人かを教壇まで呼び出した。
健太郎が居た。私も呼ばれた。いつかの追試組だと一目瞭然で分かる。
とうとう補習という強硬手段に出るのかな。
「印が付いてたのって、これで全員?」と課題プリントを渡された。
「しるし?」
そこで健太郎から、あの〝特〟という字。あの印は、特別授業の〝特〟だと教えられて……放課後は視聴覚教室に集合だという。
「そうだったのか」という閃きアハ体験と、補習にハマったと言う屈辱体験で、私の脳ミソは温度が上がったり下がったりだ。
「課題が終わるまで部活は無し」と聞いて、健太郎は慌てて、「聞いてねーよ!」と雄叫びを上げた。
「3年の原田には、僕から聞かせといたから」
野球部のキャプテンに通じていては、健太郎も黙るしかないだろう。私は渡されたプリントを、じっと睨んだ。放課後は模擬店のメニュー会議。何で、こんな時に限って。やっぱり先生はとことん私の邪魔をする気なのだ。
ごめんね。今日は無理そう。光野さんに目で合図を送った。
だよね……と光野さんも受け取ってくれたか、くれないか。
岩崎先生は、教室の出入り口に差し掛かったか所で1度振り返ると、
「あ、今口さん」
今日はこれ以上、どんな罰がもたらされるのか。
「あのさ、僕はハゲないと思うよ」
思わず飛び上がった。
「うちの家族は親父も爺さんも、ハゲてないからね」
じ、地獄耳。
そんなプライベートは要らない、と言ったか言わないか。女子の視線が、岩崎先生と一緒になって自分に突き刺さった。
そのまま放課後に突入。隠れるようにコソコソと教室を出る私に、マユの憐みの目が……と思っていたら、それは大きな間違いで。
「あたしが代わってあげたいよぉ。きゅん」
私だって、誰かと代わりたい。きゅん。
「あーあ」と溜め息交じりでレシピブックをカバンに収めた。

視聴覚教室に出向くと、そこは3組だけではなく、2組からも追試組と思しきヤツらが続々と入ってくる。いつだったか先生の携帯を覗いたとかいうカーヤも居た。楽しそうに、他の女子と一緒になって雑談に興じている。余裕だな。
部屋には十五人ほど居た。女子は自分を入れても、5人しかいなかった。
補習授業は静かに始まる。中間の範囲を始めから繰り返しての授業。課題。まるで授業が倍になって襲ってくるようだった。プリントは何処か見た事のある問題ばかり。恐らく小テスト?にあった問題だと思う。戻ってきたテストは見ないままが多かった。家でも3秒以上見た記憶がない。先生の赤ペンを蔑ろにしてきたから、今まさにその罰を受けている。
「何か質問は?」
教室は静まり返った。カーヤも、もう笑ってはいない。
「わかってる?」
「あー、何となくーぅ」
対抗意識むき出し&やる気全く無し、で答えたのは、アンチ岩崎の急先鋒を行く2組の男子だった。涼しい沈黙が流れる。先生はその男子には取り合わず、というか、はっきり無視して、「出来た人から職員室に持ってきて」と、ひと言残して教室を出て行った。それを見計らって同級生がパラパラと入ってくる。
波多野さんが入ってきて、カーヤに恐らく教えているんだろう。殆ど雑談のようなノリで、和気あいあいとやっていた。サトちゃんもマユも居なかった。アユミは部活で当然、居ない。苦い孤独を味わっている。
「教えてやろっか?」
そこに、上から物言う態度で、阿東が近寄ってきた。メガネなんか掛けているから、最初誰かと思ったよ。思った通り、嫌味度がUPした。
「いらない。あんたに教わるくらいなら死んだほうがマシだもん」と無視。
健太郎が、「阿東センセ!オレに教えてくれよ!」と、すりよって教わり始めた。健太郎は手段を選ばない。さっき盾突いた2組の男子も、それに続いた。課題を前に、アンチのプライドもへったくれも無いのか。
時間は刻々と過ぎていく。満を辞して1人が立ち上がると、それに続いて続々と周りは職員室に向って消えていった。