「光野さん、この2次式のグラフはどうなる?」
岩崎先生に突然メンバー入りを許可されて突っ込まれた光野さんは、x軸とy軸をスラスラと答えた。
光野さんは背が高くて、キャラは頼れるお姉さんタイプ。笑うとくっきり窪むエクボが可愛い。真面目で頭よくて優しくて穏やかで、怒った所なんか見た事が無い。何を聞いてもちゃんと答えてくれるし、それとなく助けてくれたりもする。まるで、わずか一皿でその存在効果を発揮する〝茶わん蒸し〟のよう。有ると無いとでは大違い。いつもの食卓が劇的に料亭化する逸品だ。
光野さんは、またすぐ別の問題を当てられていた。それもスラスラと答えた。
「さすがぁ。凄いなぁ」と見とれていると、
「今口さん、分かってる?」
わざわざ名指しで岩崎先生から確認されて、身も凍る。
「あ、は……い」
どうにも曖昧で、確実に嘘とバレている。やれやれ、と言わんばかりの岩崎先生のキツイ目線が容赦なく刺さるのだ。アユミのように泣きたくもなるよ。
確信した。
私は、この先生とは合わない。
数学の先生だから、というだけじゃない。妙な誤解のせいでもなければ、イヤらしい言葉のせいでもない。岩崎先生の〝最初から何かを疑う眼〟が怖くて気になって、張り詰めた緊張が解けないから。そこには、落ち着いて問題を考えようという余裕が生まれなかった。

その後も、後ろで騒ぐ子を無視して、岩崎先生は問題をどんどん出した。殆どの真面目な子は時間を追うごとに、授業に戻ってきた。だが健太郎のように、授業が終わるまで延々フザける男子も何人か、しつこく残っている。
終りのチャイムが鳴り号令を掛けようとした週番を、岩崎先生は止めた。
教室が一瞬静まり、ゾクッと緊張が走る。
「高校は義務教育じゃないから、やるもやらないも君達の自由」
そんな常識あふれる、当たり前の説教が始まった。ホッとすると同時に、拍子抜けした。岩崎先生は怒っているようにも見えないかわり、本気で説得しているようにも見えなかったのだ。何だか不自然な感じが残る。
「あ!センセ、今日で何歳ですかァ?」
ボールを宙に遊ばせながら、健太郎はかく乱しようとする。
「次は追い出すよ」
そう言った先生の眼は鋭い光を湛えていた。
「そんな事やっちゃっていいのぉ?教育委員会にチクるぜ。イインカイ?」
健太郎のオヤジギャグは間違いなくスベった。だが岩崎先生は余裕で笑っている。決してオヤジギャグにウケたのではない。呆れて馬鹿にした嘲笑が明らかだった。
「僕も、君達のご両親に報告に行く」
岩崎先生は健太郎を始め、騒いだ生徒の名前をズラズラと列挙しながら、出席簿に何やら書きこんでいる。クラスは、一段と騒ぐ声で溢れた。
「佐伯くんの家では、授業を放ったらかしでも部活はやらせてもらえるの?」
ギョッと慌てて、健太郎はボールを取り落とした。
岩崎先生は、健太郎の1番痛いところを的確に突いた。
打って変わって静まり返った教室では、前回の小テストが無言で返された。
私は、5問全てがアウト。答案が真っ赤に染まっている。隣の阿東に覗かれる前に急いで仕舞った。

引き際に、私は岩崎先生から呼び止められた。当てられて答えられなかった罰だと、前回出されていた宿題プリントを、みんなから集めて放課後までに持ってくるよう言われる。「何で、私が」
教室を出る岩崎先生の背中に向かって、遠慮なく恨みの目線を飛ばした。
先生の後ろを、波多野さんが、女子が何人か、マユも、いつものように頬を染めながら追いかけていく。
宿題はすぐに集めて回ったけれど、プリント自体を忘れていたり、やっていない子が結構居て、なかなか集まらない。みんな、光野さんに一度に群がって写している。「私も見せて」と、もれなく群がった。みんながプリントを写し終わるのを待っていたら、放課後になってしまった。
「ちょっと約束があって」と宿題プリントを岩崎先生に届けてもらうよう波多野さんに頼んだら、大歓迎で受け取ってくれたので、甘えた。
「約束があるのは本当だもん」
ただ、急ぎの用事という訳でもなかったけど。
これは、ささやかな抵抗だった。
答えられないから、罰って……それって、酷くないですか?
先生も数学も、どんどん嫌になる。
岩崎先生の指導能力、疑います。