懐かしい匂いだった。
ひと昔前、生徒だった頃は、特別に何の意識もしなかった匂いである。
8月、学校では夏休みに入ってすぐの事、教育実習以来、6年ぶりの母校にやってきた。学校特有の生温い温度は、10代の有り余る若さのオーラなのか、そこら中からグイグイと迫ってくる。油の混ざったような匂いは1年毎に濃度を増し、我が物顔でぶらりとやってくる僕みたいな卒業生をそう簡単には寄せ付けない。そんな意思をプンプンと匂わせるのだ。
卒業写真は廊下に今も貼ってある。写真の1番後ろにあの頃の自分を見つけた。今と身長は変わらない。高校1年でぐ~んと伸びて、そのままそこで止まった。180センチもあればもう十分だろう。

〝3年 4組 岩崎弓嵩〟

写真の自分の表情は穏やかに見えた。3年間こんなに涼しい生徒だったと誤解を生んでいるに違いない。今日はその頃の担任で、実習でもお世話になった倉田先生が何やら話があると言うので、呼ばれて来てみた。職員室には誰も居なかった。実習時代に座らされていたデスクに腰掛けて倉田先生を待っていると、誰かが廊下をバタバタと走る音がする。その音が普通じゃなかった。恐らくデブ……いや、失礼。身体の大きな人だな。
すぐに廊下に出て様子を窺って見たけれど、そこにはもう誰もいない。ただ、何か誘われるような、懐かしいような、そんな匂いだけが残っていた。
職員室に戻り、外を眺めていた所で、
「地味に暑いなぁ」
倉田先生が職員室に入ってきた。もう50代後半にもなるか。相変わらずガリガリで背も小さい。その昔、女子からは〝倉田ちゃん〟と呼ばれて、からかわれていた。しかし怒らせると怖かった。決して、腕っぷしが強いから、ではない。いい加減に扱おうものなら〝おまえを人間として見損なうゾ〟というモラルの軸を、その小さな立ち姿より感じるからだ。
倉田先生は、何かのファイルでバタバタと自身を扇いだ。思ったより涼しくならないとやがて諦めてデスクに放り投げる。そこで大きく息を吸い込むと、「今日はカレーだなぁ」と呟いた。聞けば、昨日あたりから野球部が合宿をしているらしく、今頃は誰かが部員の夕食作りに追われていると聞く。そう言えばそんな匂いだな、と思いを止めた。倉田先生は、また大きく吸い込んで……「こっちは本当の加齢臭か」それを真顔で言うので、思わず笑った。
「お~い!今日は2人分持ってきてくれ」
先生は廊下に顔だけ出して、大声で叫んだ。女の子の声で、「ごはん、大盛りですね!」と明るい声が返ってくる。さっきのバタバタちゃん、なのか。作っているのはマネージャーの女の子かもしれない。「僕はいいですよ」と、1度は断ったものの、雑談の間にもカレーのいい匂いが、もうそこらへんに充満してきて、ガンガンこっちを攻撃してくる。
「岩崎も食ってけ。多分、ただのカレーじゃないぞ」
聞けば、その女の子というのが、かなり凝ったご飯を作るらしく、倉田先生もその腕前に惚れ込んで、今日は野球部と一緒に、ごちそうになると言う。そう聞けば興味も湧いて、遠慮なく頂く事にした。
容赦なく襲い掛かるカレーの誘惑と期待の中、倉田先生は本題に入った。
突然に辞める先生が居て、それで2学期からしばらく教壇に立ってみないか、という話だった。
非常勤講師なので、授業以外は基本的にフリー。塾の勤務と掛け持ちできれば、今より収入が増える。迷いは無かった。金の問題だけでもない。学校の教壇。つまり塾とは違うフィールド。もともとは学校現場に軸を置きたかった事もあって……考えて2,3日中に返事をすると、倉田先生に伝えた。
同級生の近況報告を肴に缶コーヒーをあおっていると、そのうち夕食が出来たとかで、野球部の1年男子がカレーを運んで来た。その頃ともなると、匂いはもう学校中に蔓延している。
……美味そう。
まず色が違う。黄色くも黒くもない深い色合い。凝ったカレーといっても正統派を外れていないのが嬉しかった。お馴染みのニンジンとジャガイモが、ごろんと転がっている。
「うまい!うまいなぁ」
声にならない自分に代わって倉田先生が、カレーに最大の賛辞を与えた。
「ごはんもいいだろ。柔らかめで。パサパサよりは、こっちがいいなぁ」
自分もしきりと頷いた。
ふと、お替りをよそう女の子の姿が浮かんだ。
デブ……いや、身体が大きくて、ふっくら丸々としていて、クラスメートから、おかん!とか呼ばれていそうな白いエプロンの女の子である。
そこに「倉田先生」と、か細い声の、恐らく女子が職員室の出入り口まで来た。自分には真後ろになる、その女子の姿は、出入り口に立つ倉田先生と重なって顔も何も見えない。やっぱり!の白いエプロンだけが、わずかに見えた。デブ……いや、大柄な子では無さそう。小さい声で早口で喋っているので、僕には何を言っているのか聞こえない。戻ってきた倉田先生の手には福神漬けと2人分のお茶があった。
「今日はお替りは無し、らしいぞ」
野球部は食うからなぁ~と、倉田先生は残念そうに福神漬を口にした。
僕も何処か淋しい気持ちになった。カレーは大盛りではあった。だが、お替りが無いと聞いた途端、もう少し食べたい気もしてくる。不思議と言えば、もう1つ。肉が入ってない気がするけど。これは何だ?
「岩崎。ウチの学校に来れば、こんなご馳走が毎日食えるぞ」
一瞬、自分のスプーンが止まった。そんな僕を見て、「かもしれない」と倉田先生はイタズラっぽく笑う。
危うく食い物で釣られる所だった。冗談にもならないと苦笑する。

……カレーと先に出会ってしまった。
この時は、まだ名前も知らない女の子である。