その心地良い距離感に浸って、背後の松本くんを忘れていたことは言うまでもない。


「…でも、付き合ってないんだろ?」


しつこく食い下がる彼だけど、もうここまで来ると意地しか感じない。

しかも、結構な角度で、あたしの痛いところを突いてくる。

そんなの、言われなくてもわかってるっつーの!!!

でもどうしよう……何て言い返せばいい?

好きじゃないから、なんて、松本くんには通用する気がしない。

とりあえず付き合ってみない?なんて言われそう。


「…めんどくせぇな……」


そう、本当にめんどくさ…


「っ!?」


めまぐるしく、視界が180°変わった。

肇が、付け八重歯を鬱陶しそうにその場に捨てる。

驚いて見上げた目の前に不敵な笑みがあって、気がついた時にはもう手遅れだった。


「…合わせろ」


低く囁かれた声も、どこか遠く感じられて、上の空。


「…実は、付き合ってるんだよな、俺たち」


どういうつもり?、なんて聞かなくたって分かる。

言われた通り、小さく頷いてしまった。

今、松本くんからは再び背を向けた状態になっているから、伝わっているかは分からないけれど。


世界が、色をなくしたみたい。

闇さえも灰色に染まっていく。

月の光さえ、ただ灰色にあたしを照らしていった。


「は…?」

「だから、付き合ってんだよ。周りには秘密で」

「…で、でもこの前、和香は生徒会長と付き合ってただろ!」

「あぁ…あれはまぁ、ちょっとしたケンカだよな?」


また小さく頷く。

とうとう松本くんは何も発さなくなってしまった。

あたしからは見えないけど、狼狽えてるのかな?

だとしたらありがたい。

早く、一刻も早くこの状態から脱したい。


もうこれ以上近づきたくないよ…

触れれば触れるほど、きっと傷は深くなる。

どんなに近づいても、焦がれても、あたしたちは恋人にはなれない。

早く幼なじみの距離に戻らなきゃ。

不安定な場所ではもう立っていられないから。

あたしの唇の、数センチ横に触れたあなたの唇の感触も
この胸の高鳴りも
全部全部忘れるから。


だから、どうか神様、元通りにしてください。



「もう行ったぞ」

「っ、」


その声が聞こえてすぐに、あたしは力いっぱい肇の胸板を押した。

肇は、滅多に見ないような驚いた顔をして、後ろに数歩下がった。

大袈裟に息を吸った。


「びっくりするじゃん、あんなの…!」

「俺も今のはビックリしたんだけどなぁ…?……悪ぃ、あれが手っ取り早いって思ったから」

「これからどうすんの?絶っ対、話広まるよ?……絶対あたし、質問攻めだよ…」


もし、これが原因で恋人のフリとかし続けることになったらどうしよう…そんなの無理だよ…

あたしは力なくその場にうずくまった。

肇の顔は見れない。
ううん、見たくない。

もう見ない方が楽でいられる。

それはもう、幼なじみ以下の関係になることだけど。

後ろから、別の二人組の声が近づいてくる。


「…とりあえず、このままここにいるのはまずい。行くぞ」


肇はあたしの腕を引っ張って立たせようとするけど、あたしはその手を振り払った。

たとえ叶わない恋だとしても、そばにいれば、どんどん好きになってしまう。

叶わない想いだけを抱えているのは、正直辛いから。

ぐちゃぐちゃに丸まった紙のように、自分の気持ちが定まらない。

その紙を開いたら、きっとど真ん中に書いてあるのはたった2文字。
あたしの、ちっぽけな、ありったけの気持ち。


肇の腕が、振り払えない力で、今度はあたしの肩を抱いた。


あたし、男に生まれた方が楽だったのかなぁ…?
だって、そしたら肇に恋して辛くなることも無かっただろうし……

いや、同性愛者ってパターンもある…

何なんだろ…どうしてもあたし、肇に恋するのかな。


そんなバカみたいな脳内は肇には知られてないんだろう。

そのまま横道に入った。

あたしが抵抗しないのを見て取ると、今度は手を繋がれる。

無言で見上げると、また逃げられたら困る、と低い呟きが聞こえて、あたしは正面を向く。


「…ムカついた」

「……なにが?」

「あんなのと、手繋ぐなよ」

「しょうがないじゃん、離してくれなかったんだもん」

「勝手に呼び捨てにされてんなよ」

「…しょうがないじゃん、勝手に呼ばれたんだもん」

「あぁ~、イライラした」

「…っあ、もしかして…ヤキモチ~?」


場を繋ぐための、ほんのジョークのつもりだった。


「そうだよ、悪いか」


んなわけねーだろ、ってキレぎみで言ってくれるって、思ってたのに。

肇は、不機嫌そうに左手で首の後ろに触れた。

立ち止まりかけたあたしを、肇が無理矢理引っ張って道を進む。

ねぇなんで、それ。

照れてるときの仕草。

期待させるようなこと。