思い出の空

 携帯の振動音が微かに聞こえる。それは一日の始まりを告げる聞きなれた音。しかし、目覚めと同時にこの振動を感じることは稀だ。

 ブラインドの隙間から漏れる光は、いつもよりもまぶしい。

 それらを確認して、今の状況を理解する。寝坊した。

 携帯の画面を確認するともう七時をまわっていた。俺は顔を洗うよりも先に着替えを済ませ、鞄やコートを担いで階段を駆け下りた。

「おはよう」

 母さんの挨拶を右から左に流しながら、適当に顔を洗う。制服の袖に水が染みたが気にしない。

 顔を洗い終えて、念のため陽子にメールを送る。

『寝坊なう』

 テーブルに置いてあったサンドウィッチを一切れだけ口に詰め込んで、玄関に向かう。飲み込むころには既に玄関のドアを開けていた。

「行ってきます、鍵閉めといて」

 母さんに聞こえるようにそれだけ言って、急ぎ足で駅に向かう。

 今日の天候は雪。粉雪がパラパラと降っている程度だが、このまま降り続けたらそこそこ積もるだろう。

 こんな雪の降る日に限って寝坊して、しかも帽子を忘れてしまっている。幸先の悪い一日である。

 だが、不思議と今日は、そんなに悪い気分ではない。たぶん、昨日決めることは決め、彼女からラブコールをもらい、母さんに言いたいことを言ったからだろう。こうして振り返ると、昨日はずいぶんと充実した一日だったように思える。

 昨日の陽子の顔を思い出すと、自然と顔がにやけてしまう。急ぎ足で駅に向かうニヤニヤした男って、それはもう不審者みたいなものではないか。

 昨日のことを思い出すのはとりあえずやめよう。俺はそう決めて、信号が青になるのを確認してから横断歩道を渡り始めた。

 渡り始めた、直後だった。

 なぜか俺の体が宙に浮いていた。

 何故浮いているのかがさっぱりわからない。

 視界に映るのは青信号と乗用車。ぐるりと回転し、視界が赤信号とトラックに変わる。

 ぐるんぐるんと、まるで夢でも見ているかのように視界が回る。ここが現実世界だとはとても思えない。そのくらいに、今のこの状況は非現実的だ。

 だが、心のどこかで、冷静に理解している自分がいる。

 俺は今、トラックに撥ねられたところだ。

 それを理解した途端、体に激痛が走り、スローペースで進んでいた時が一気に加速する。

 加速した体は地面に何度も叩きつけられ、耳障りな音が入り込んでいく。きっとこの耳障りな音は、骨が折れる音だ。

 いったいどれだけ叩きつけられたかわからない。一生止まることがないのではないかというほどに叩きつけられたところで、俺の体は停止した。

 体の感覚が一切ない。動かすことが出来ない。動かしているのかわからない。

 目に映るのは、ただただ白いだけの世界。それは雪の降る雲なのか、それとも地面なのか、それさえもはっきりしない。

 そして、今度は意識が薄くなっていく。

 眠る時の感覚に近い。

 だが、眠る時以上に意識が消えていくのをはっきりと実感できる。

 薄く薄く、より薄く。見えなくなるまで消えていく。

 そして、すべてが消えてしまうその瞬間に、悟った。



 俺は、死ぬんだ。