思い出の空

 勉強というものは、どうしてこうも疲れるものなのだろう。六時間、休憩があるとはいえ、一日のうちの四分の一を勉強に費やしているわけだ。それだけ勉強しているのにも関わらず、帰宅してからも勉強ばかりしているような人もいる。他に何か趣味がないのかと言いたいところだが、そういう人たちにもしっかりと趣味はあるのだ。勉強の時間が長いだけで、間で趣味の時間も作っている。きっとこういう人は、人生を上手く進めて、なおかつ楽しんでいるのだろうと思う。

 ちなみに、俺の彼女がまさにそれだ。

「空、私の顔見てなくていいから教科書見てよ」

 困ったような、照れたような顔で向かいの席に座る陽子が言った。

 ちなみに、勉強が大して好きでもないのに、学校が終わってからも勉強しているのが俺だ。嫌いなことでもやらなければいけない時はあるのだ。というか、そんな時ばかりだ。

 現在時刻は夕方五時を過ぎたところだ。予定通り、メモリーズで勉強中である。

「お待たせ致しました。メモリーズブレンドになります」

 ワイシャツにエプロンをかけた初老の男性が、笑顔で俺たちの席に来た。彼がここの店主の神さんである。

「ありがとうございます」

「学生さんは大変だねえ。ゆっくりしていってね」

 他の客もいるからだろう、神さんはすぐにカウンターの方に戻っていった。神さんはこのカフェを一人で切り盛りしているそうだ。噂によると結構な財産を持っているそうで、カフェはほとんど趣味でやっているようなものなのだとか。

「カフェ経営する前はなにしてたんだろうな」

「それは私も知らない。たぶん誰も知らないんじゃないかな」

「誰もってことはないだろ」

 人の子なのだから、友人の一人、親や兄弟だっているだろう。

「神さん、あまりプライベートの話はしない人だから」

「ふーん」

 まあ、彼のプライベートを知ったところで何がどうなることもない。今俺が知るべきなのはこの教科書に載っている公式の使い方と覚え方だ。

 興味のないことを頭に詰め込むのは辛いことこの上ない。

「なあ、陽子はやっぱり、金があったら大学に通いたいのか?」

 公式をノートに何度も書き写しながらなんとなくそんな話題を振ってみる。

「んー、通いたくないって言ったら噓になるけど、すごい行きたいってことはないかな」

「専門学校とかも?」

「今のところ、そんなにやりたいことってないから」

「それだけ勉強できるのに、やりたいことがないってのはもったいない気がするな、俺は」

 陽子の参考書をちらっと覗く。今度の試験は数学Ⅱの範囲のはずなのに、陽子の手元にあるのは何故か数学Ⅲである。もう数学Ⅱは完璧なのだろう。

 この文学少女は、文系だけではなく、理系も出来る。ハイブリット少女と呼ぼうか。

「小説好きなら、小説家になるってどうよ」

「私は読書が好きなだけ。書くのと読むのじゃ全然違う」

「そんなもんかね」

「そんなものです」

「書いたことあんの?」

「……ある」

「今の沈黙の意味するところは?」

「察してよ」

「ごめん」

 機会があれば読んでみたいが、きっと読ませてくれないのだろう。

 俺は何度も書き写した公式と睨めっこしながら、コーヒーを一口啜った。メモリーズ以外ではあまりコーヒーを飲まない俺だが、きっとここのコーヒーは美味しいのだと思う。小学生並みの感想しか浮かばないけど、美味しい。