黒き魔物にくちづけを



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帰り道は迷うことも別の魔物に遭遇することもなく、無事に山を降りることができた。このまま屋敷まで何事もなく辿り着けるのであろうと思った、その矢先の出来事だ。

「……何か聞こえないか?」

突然足を止め、魔物が警戒したようにそう言った。

「え?……何も、聞こえないけれど」

つられて足を止めたエレノアも、耳をすませて辺りの様子を伺う。けれど彼女の耳には、時折風が木々を揺らすザワザワとした森の音以外には何も聞こえなかった。

「いや、足音が聞こえる。それも複数……十はいるな。これは……二足歩行?だが、そんな奴この森には……」

けれど魔物は、目を閉じて何かを聴いているようだった。きっと人間の耳には届かない僅かな音を、敏感に拾っているのだろう。その表情は見たことがないほどに厳しい。何が起こっているのだろうと、彼女は魔物の様子を見守りつつ言葉を待った。

「……人だ」

やがて、目を開いた魔物が、硬い声でそう言った。

その目は、彼女達がいる道の先を、何かを睨むように見据えていた。

「人?」

魔物の言葉を聞いた彼女は、驚いてその言葉を繰り返した。この森に通うような人間はいないはずではないのか。それが、何故?

エレノアも耳をすませて、もう一度何か聞こえないかと探した。すると──風がやむ一瞬、森の音とは明らかに異質な、叫び声のようなものが、聞こえた気がした。

──『魔物!どこだ!』
──『出てくるがいい!』

彼女は目を見開く。錯覚かもしれないけれど、今、確かにそのような言葉が、聞こえた。