「昔、この森には神がいた」

魔物は、静かに語り始める。エレノアは、神殿を見つめたまま、それに耳を傾けた。

「神がいるのだと、信じられていた」

神がいた、と、神がいるのだと信じられていた。微妙に違う二つの表現が、彼女の胸に響く。同じようで決して違う、二つの言葉。

「人々は森の神に祈りを捧げ、様々な恩恵を願った。太陽から、水から。全てのものは森の神からの贈り物だとされていた。人々は感謝の気持ちを、この場で儀式として伝えていた」

立派すぎるほどの神殿。きっと、森の神を信じていた人々は裕福だったのだろう。豊かな暮らしを、神に感謝しながら生きていたのだろう。

「……けれど、時は流れる。人々の心は不変ではない。信仰は、いつしか形を変えた」

人々の心は不変ではないと、彼女は身をもって知っていた。話の続きをどこかで予感しながら、彼女は魔物の言葉を待った。

「いつからか、森に棲むと信じられるものは神から魔物にすり変わった。恩恵をもたらす神は、災厄をもたらす魔物に変化した」

恵まれた生活に慣れすぎた人間は、感謝の心を忘れてしまった。些細な災厄ばかりが目に付くようになり、その結果、それをもたらす魔物がいるのだという疑念が、人々の心の中に蔓延るようになってしまったのだろう。

「今はもう、この森には神はいない。どこにもいない。……それを信じる人間が、いなくなったからだ」

【神はいない】。エレノアはその言葉を、やはり黙って聞いていた。信じる者がいないから、神はいない。信じる者がいるのなら、そこに神はいる。きっと町の人間は理解できないであろう言葉に、けれど彼女は納得していた。