黒き魔物にくちづけを


「だから、あなたは私に会ったことを忘れてちょうだい。生贄なんていなかった。あなたは人間になんて、会っていないのよ」

「……」

「じゃあ、そういうことで。さようなら。縄を解いてくれて助かったわ」

最後ににこりと微笑んで、彼女はくるりと背を向ける。空気を孕んで、纏う真白の装束がふわりと膨らんだ。

エレノアは迷わぬ足取りで進み出す。また振り出しに戻ったわけだけれど、とりあえず奥に進めばいいか、なんて考えながら。

振り返ることは、しなかった。

二人の距離が、少しずつ開いていく。

ざわ、と、一陣の風が吹き抜けた。

「──お前は、黒の森の魔物に捧げられた生贄だったな」

──隔たった空間を切り裂いて、低い声が響く。

エレノアは、足を止める。なぜならそれは、今まで話していた男──否、魔物の声だから。

「……そうよ。魔物が原因だとかいう、なんだったかしら、水不足か何かを鎮めるために捧げられた生贄」

振り返らぬまま、声を張り上げて彼女は答えた。

「それは、どんな魔物だ」

男も歩み寄らぬまま、質問だけを続けて投げかける。今さら何だと内心で首をひねりながら、彼女はまた口を開いた。

「黒くて、翼がある魔物……と、聞いているわ」

大きな声で答えを投げると、けれど男からの答えは返ってこなかった。聞いておいて何なのだと怪訝に思うと、背後で男がくすりと笑ったような気配を感じる。

「……ああ、それは、俺のことだな」

そして、どこか可笑しげな声が響き。

しゅる、と、布がこすれる音が風に乗って届くと同時に、何かが動いたのがわかった。

「え……」

どういう意味だ、と問い返そうと、思わず背後を振り返る。そして彼女は、目を見開いた。

そこには、【魔物】がいた。

先ほど話していた、人の形をした男ではない。そこにいたのは──【魔物】、と形容するに相応しい存在だったのだ。

その全身は、黒一色に塗りつぶされていた。獣に似た毛並みをもち、けれど四本の脚や腹は鱗に覆われ、口から覗く歯はどれもが犬歯のように尖っている。体躯はエレノアの身長を遥かに超えるほどの大きさで──そして何より、背中から生えた大きな翼が、大きな存在感を放っていた。