黒き魔物にくちづけを


「は……」

唖然とした声が、エレノアの口から漏れる。人語を話す時点で驚いてはいたが、これを見せつけられてしまうともう呆然とすることしか出来ない。

魔物の棲む森、今更ながら、そこにいる実感がじわじわと広がってくる。

「かしらー!」

そうしてカラスは、バサバサ羽音をたてながら、先程よりはかなり高くなっただみ声を響かせて、屋敷の中へと飛び込んでいった。

「……逃げるとか、思ってないのかしら」

その場に置き去りにされたエレノアは、まだ呆然としたまま一人呟いた。

それから、疼く右肩を気にしつつ立ち上がる。まじまじと、洋館を見つめた。

見る限りは、普通の屋敷だった。古い造りだけれど、それ以外はおかしな様子もない。役人だとか町の有力者が住んでそうな──つまり、エレノアが住んだことのないような、立派な屋敷だ。

(こんな場所に、魔物が……?)

貴族の別荘、と言われても信じてしまうような様相を呈する屋敷に、彼女は内心で首を傾げる。けれどすぐに、ここが黒の森だということを思い出した。

──こんなところに寄り付く人間はいない。だからここに住んでいるという時点で、それは普通の人ではないのだ。

カラスがいなくなったことで、しばし静寂に包まれていた辺りに、再び騒がしい物音が響いてくる。音の出処はもちろん、屋敷の中だ。

(……"かしら"の、登場ってわけね)

かしら!はやく!と響いてくるだみ声に耳を傾けながら、彼女は内心で考える。相変わらず腕は後ろ手に縛られているので、ほつれた髪や汚れた服を直すことは出来ないが、せめてと背筋を伸ばして、魔物の登場を待った。

「かしら!ニンゲン!」

「うるさい、つつくなビルド……!」

カラスの声に紛れて聞こえてきたのは、それよりいくぶんか落ち着いた、男の声だ。

あのカラスもそうだからある程度想像はしていたけれど、やはりかしらとやらも人語を話すらしい。物音を聞く限り、あのカラスにつつかれているようだけど。

「イケニエ!オンナ!そこ、いる!」

「生贄……?おい、人間の女は連れてくるなとあれほど……」

"かしら"のうんざりしたような声が聞こえ、それと同時、開け放たれたままの扉の向こうに、"魔物"が姿を現した。