黒き魔物にくちづけを


ドシン、という大きな音が響く。塞がったばかりの傷口に響いたのか、彼は大きく呻いて、一連の流れをぽかんと見ていたエレノアは、つい盛大に吹き出した。

(あの間抜けな表情、ほんと忘れられないわ……!ああ、思い出したら可笑しくなってきちゃった)

慌てて手を離した時の表情、落ちた時の驚いた表情、そして彼女に笑われて拗ねたように視線を逸らす表情。順に思い出した彼女は、ついふふっと笑いをこぼした。

「……何かあったのか?」

傍らにいた魔物が、不思議そうに尋ねてくる。エレノアは慌てて首を振った。

「ううん、ただちょっと、その、思い出しちゃって……朝のこと」

誤魔化しきれないと白状した彼女に、魔物は一瞬瞠目して、それから気まずそうに視線を彷徨わせた。

「それに関しては、その……悪かったから……」

「ううん、別に怒っているわけじゃないのよ。ただ、あまりにも面白かったから……」

彼女の言葉に、今度こそ男は気まずそうに眉を下げた。その表情がやっぱり面白くて、エレノアはつい笑ってしまい。

この空気感は心地いい。それも、どうしようもなく。本格的に笑いながら、彼女はそんなことを思ったのだった。

もちろん、男のことは完全に信頼したわけではない。そもそも彼女は誰かを全面的に信じるという経験に極端に乏しい。その上彼は自分の口で、不穏なことも言っている。──けれど、それでも、彼が悪意の塊のような人ではないのだと、過ごした時間でエレノアは知ってしまっていた。

それがいいことなのかどうなのか、彼女にはわからない。けれどこうして彼と言葉を交わし、生活を共にするのは苦痛ではなくて、むしろ快いと感じているくらいで。