【私の父母が亡くなったのは、ただ恋のためでした】
家に帰り、レイへの手紙を綴り終えて、凛子は懐かしい我が家を見回した。古い木造の平屋。畳の匂いももう微かしかしない。ここで、両親と自分は暮らした。短い間だったけれど、幸せ、だった。
「みやお」
「みい……きたのね」
庭に通ずる古いドアを開ける。いつも餌をやっていた野良猫のみいに、餌をたっぷりと出してやる。みいはいつもこんな量をもらえたことのないせいか、しばらく凛子を見つめ、眼をぱちくりさせ、また悲しそうにみゃおと鳴いた。
「またいつかね、みい」
(お父さん、お母さん)
ここで過ごしたのは短い期間だった。だけれど自分は確かに幸せだった。父にたかいたかいとあやしてもらって、母がその後ろであたたかなごはんを用意している。何気ない日の、幸せがこの家にはたくさん落ちていた。
吸血鬼として生き、そして死ぬ。
(私はあなたたちと同じような道を辿ります、でも、不思議と後悔はないの。ただちょっぴり、明日が怖いだけ)
「さようなら、私」
鏡に映る己に、小さくお別れをした
◆
暁のころ。太陽が赤々と射し込んでくる。闇が光に消えていく。溶けてなくなる。
(もうじき、私もそうなるのね)
深夜、病室で昏睡状態になっていたレイの首にかみついて、彼を吸血鬼にした。その際、彼の枕元に手紙を置いてきた。すべてを記した手紙を。彼にとって自分の存在が、十字架になってしまうことも考えた。だけれど、愛しい人に、最後に自分の気持ちをすべて、話しておきたいと、強く、思ったから。
「私を許してね、レイ」
これで大丈夫、これで逝ける。凛子はそのまま、いずこへかと歩み出した。
◆
【レイへ】
昏睡から覚め、吸血鬼としてほぼ不死の身体を手にしたレイは、すぐさま起き上がって手紙の存在に気が付いた。急いて開ける。そして体についていたもはや不要な管を無理に取り去り、走りだした。
【私の父母が亡くなったのは、ただ恋のためでした】
【私とあなたが日田高校に進学したのも、今思えば不思議な符合ね。だって、そう思わない? 私が日に堕ちるのよ】
【レイ、もうお別れだから、本当のことを言うわね。私、もうすぐ死ぬの】
走り出すレイの眼より、額から流れる汗と涙が混ざってこぼれた。
【私の父は吸血鬼だったの。そして人間だった母に恋した】
【ある日、私が生まれて何年も経った時にね、母が父に、私も吸血鬼となってあなたとこの子の行く末を守りたい、と言ったのですって】
【そして、その決意を受け入れた父は母の血を吸って吸血鬼にした。だけど、二人はその時知らなかったのね。それがどんな帰結を迎えるのかを】
はあ、はあ。レイは久方ぶりに動かした足に疲れを感じ、だけれど休む間もなく再び走り出した。 朝日の照らす海沿いの道は、眩しくて、彼はそれを憎んだ。手紙はまだ続いている。
【吸血してすぐ、父は日を浴びて死んでしまったの。吸血鬼は恋している相手の血を吸うと、日の光に侵されてしまうの】
【それを悟った母も、家に残っていた父の血を吸って、死んでしまったわ。自責の念に耐えられなかったんでしょうね】
「凛子……」
【私はその時から一人きりになった。学校でも、家でも、ずっと一人。それでいいと思っていた。あなたに会うまでは】
「凛子っ……」
【あなたと知り合って、あなたと過ごすうちに、私、あなたのことを好きになりました。だから、この命と引き換えに、あなたを救おうと、思うようになりました】
【正直、死ぬのはとても怖いのです。怖くて仕方ないのです。陽の光に焼かれて死んでいくのは、とても痛そうで、怖いです。だけど】
【私、あなたに恋してしまったから。確かめてみたいの。本当に私、恋を知って幸せに死ねるのかを】
「凛子ぉ……っ」
【こんな手紙を書いてしまってごめんなさい。最後になるけど、今までつらかった分、幸せに生きてね。それだけが私の望みです】
【ありがとう、好きよ。 凛子】
朝日射す浜辺に、いつか桜貝を拾った浜辺に、凛子は一人立っていた。体が日を浴びて、もろくなっていくのが分かる。もうじき消えてなくなる。この地上から、そっと消えていく。
「凛子っ……!!!」
そこで、凛子は聞きなれた声を聴いた。まさか、と思っていた。ここで静かに、死んでいこうと思っていたのに。一人で大丈夫だと、思っていたのに。だけど彼の声を聴くと、涙がただ溢れて、止まらなかった。
「レイ……!」
「凛子っ」
レイが走ってこちらへやってくる。凛子はもはや立ち尽くしたまま、彼を迎えた。次には彼の腕の中に入っていた。強い強い力で、凛子を抱きしめる、腕。その温かさに、思わず涙がこぼれる。こぼれて、止まらない。
「この馬鹿っ何で、何で」
「いいの。これで、いいの」
凛子が微笑む。
「ありがとう、来てくれて。本当は一人で死んでいくの、怖かったの」
「……馬鹿やろ。来るに決まってんだろ」
その時、潮風が吹いて、二人の髪を揺らした。凛子はもはや立てなくなり、レイの腕の中、彼にもたれた。そのまま二人、浜辺にうずくまる。
「大丈夫か。痛くないか」
「ううん、平気。不思議と、痛くないし怖くない」
それが嘘だとは、凛子の次の言葉でわかってしまった。
「レイ、手を、握っていて、怖くないように」
「うん……」
二人はそのまま朝日さす浜辺に座り込んでいた。くだらない話をしながら。
「ほんとはさ、お前とさ、してみたいこととか結構あったんだぜ」
「たとえば?」
「俺のシュートを見て欲しかったな。俺、絵もうまいし、サッカーも、うまいんだ」
「それ、自分で言う?」
「うるせー女だな。ったく、本当にうまいんだぜ?」
「はいはい」
「絵も、もっと見て欲しかったな。結構風景画もうまいんだ、俺」
「そう、ね。お花の絵も、とっても、素敵だった……」
そこで、凛子の手が日の光で灰に変じてきた。
「いよいよ、ね……」
レイが涙まじりに告げようとする。
「凛子……、俺さ、ほんとうはお前のこと」
「言わない、で……」
凛子の瞳から、涙が一筋流れる。それはまるで流れ星のようだった。
「あと、少し、そばに、いて、くれる?」
「いるよ、いる。離れるもんか」
「あり、がとう……」
凛子の身体がぴしぴしと音たてて割れていく。彼女の顔は優しい笑顔のまま、灰となっていく。
「凛子、いくな……お願い、だから」
レイの涙が凛子の灰にかかっても、その流れはよどみなかった。
「レ、イ……?」
「ああ……」
「好き、よ」
凛子の唇が灰となって消えた。
「ありがとう」
そして彼女の身体は灰となって崩れ落ちた。
その掌には、桜色の貝殻の三つめが入っていた。
家に帰り、レイへの手紙を綴り終えて、凛子は懐かしい我が家を見回した。古い木造の平屋。畳の匂いももう微かしかしない。ここで、両親と自分は暮らした。短い間だったけれど、幸せ、だった。
「みやお」
「みい……きたのね」
庭に通ずる古いドアを開ける。いつも餌をやっていた野良猫のみいに、餌をたっぷりと出してやる。みいはいつもこんな量をもらえたことのないせいか、しばらく凛子を見つめ、眼をぱちくりさせ、また悲しそうにみゃおと鳴いた。
「またいつかね、みい」
(お父さん、お母さん)
ここで過ごしたのは短い期間だった。だけれど自分は確かに幸せだった。父にたかいたかいとあやしてもらって、母がその後ろであたたかなごはんを用意している。何気ない日の、幸せがこの家にはたくさん落ちていた。
吸血鬼として生き、そして死ぬ。
(私はあなたたちと同じような道を辿ります、でも、不思議と後悔はないの。ただちょっぴり、明日が怖いだけ)
「さようなら、私」
鏡に映る己に、小さくお別れをした
◆
暁のころ。太陽が赤々と射し込んでくる。闇が光に消えていく。溶けてなくなる。
(もうじき、私もそうなるのね)
深夜、病室で昏睡状態になっていたレイの首にかみついて、彼を吸血鬼にした。その際、彼の枕元に手紙を置いてきた。すべてを記した手紙を。彼にとって自分の存在が、十字架になってしまうことも考えた。だけれど、愛しい人に、最後に自分の気持ちをすべて、話しておきたいと、強く、思ったから。
「私を許してね、レイ」
これで大丈夫、これで逝ける。凛子はそのまま、いずこへかと歩み出した。
◆
【レイへ】
昏睡から覚め、吸血鬼としてほぼ不死の身体を手にしたレイは、すぐさま起き上がって手紙の存在に気が付いた。急いて開ける。そして体についていたもはや不要な管を無理に取り去り、走りだした。
【私の父母が亡くなったのは、ただ恋のためでした】
【私とあなたが日田高校に進学したのも、今思えば不思議な符合ね。だって、そう思わない? 私が日に堕ちるのよ】
【レイ、もうお別れだから、本当のことを言うわね。私、もうすぐ死ぬの】
走り出すレイの眼より、額から流れる汗と涙が混ざってこぼれた。
【私の父は吸血鬼だったの。そして人間だった母に恋した】
【ある日、私が生まれて何年も経った時にね、母が父に、私も吸血鬼となってあなたとこの子の行く末を守りたい、と言ったのですって】
【そして、その決意を受け入れた父は母の血を吸って吸血鬼にした。だけど、二人はその時知らなかったのね。それがどんな帰結を迎えるのかを】
はあ、はあ。レイは久方ぶりに動かした足に疲れを感じ、だけれど休む間もなく再び走り出した。 朝日の照らす海沿いの道は、眩しくて、彼はそれを憎んだ。手紙はまだ続いている。
【吸血してすぐ、父は日を浴びて死んでしまったの。吸血鬼は恋している相手の血を吸うと、日の光に侵されてしまうの】
【それを悟った母も、家に残っていた父の血を吸って、死んでしまったわ。自責の念に耐えられなかったんでしょうね】
「凛子……」
【私はその時から一人きりになった。学校でも、家でも、ずっと一人。それでいいと思っていた。あなたに会うまでは】
「凛子っ……」
【あなたと知り合って、あなたと過ごすうちに、私、あなたのことを好きになりました。だから、この命と引き換えに、あなたを救おうと、思うようになりました】
【正直、死ぬのはとても怖いのです。怖くて仕方ないのです。陽の光に焼かれて死んでいくのは、とても痛そうで、怖いです。だけど】
【私、あなたに恋してしまったから。確かめてみたいの。本当に私、恋を知って幸せに死ねるのかを】
「凛子ぉ……っ」
【こんな手紙を書いてしまってごめんなさい。最後になるけど、今までつらかった分、幸せに生きてね。それだけが私の望みです】
【ありがとう、好きよ。 凛子】
朝日射す浜辺に、いつか桜貝を拾った浜辺に、凛子は一人立っていた。体が日を浴びて、もろくなっていくのが分かる。もうじき消えてなくなる。この地上から、そっと消えていく。
「凛子っ……!!!」
そこで、凛子は聞きなれた声を聴いた。まさか、と思っていた。ここで静かに、死んでいこうと思っていたのに。一人で大丈夫だと、思っていたのに。だけど彼の声を聴くと、涙がただ溢れて、止まらなかった。
「レイ……!」
「凛子っ」
レイが走ってこちらへやってくる。凛子はもはや立ち尽くしたまま、彼を迎えた。次には彼の腕の中に入っていた。強い強い力で、凛子を抱きしめる、腕。その温かさに、思わず涙がこぼれる。こぼれて、止まらない。
「この馬鹿っ何で、何で」
「いいの。これで、いいの」
凛子が微笑む。
「ありがとう、来てくれて。本当は一人で死んでいくの、怖かったの」
「……馬鹿やろ。来るに決まってんだろ」
その時、潮風が吹いて、二人の髪を揺らした。凛子はもはや立てなくなり、レイの腕の中、彼にもたれた。そのまま二人、浜辺にうずくまる。
「大丈夫か。痛くないか」
「ううん、平気。不思議と、痛くないし怖くない」
それが嘘だとは、凛子の次の言葉でわかってしまった。
「レイ、手を、握っていて、怖くないように」
「うん……」
二人はそのまま朝日さす浜辺に座り込んでいた。くだらない話をしながら。
「ほんとはさ、お前とさ、してみたいこととか結構あったんだぜ」
「たとえば?」
「俺のシュートを見て欲しかったな。俺、絵もうまいし、サッカーも、うまいんだ」
「それ、自分で言う?」
「うるせー女だな。ったく、本当にうまいんだぜ?」
「はいはい」
「絵も、もっと見て欲しかったな。結構風景画もうまいんだ、俺」
「そう、ね。お花の絵も、とっても、素敵だった……」
そこで、凛子の手が日の光で灰に変じてきた。
「いよいよ、ね……」
レイが涙まじりに告げようとする。
「凛子……、俺さ、ほんとうはお前のこと」
「言わない、で……」
凛子の瞳から、涙が一筋流れる。それはまるで流れ星のようだった。
「あと、少し、そばに、いて、くれる?」
「いるよ、いる。離れるもんか」
「あり、がとう……」
凛子の身体がぴしぴしと音たてて割れていく。彼女の顔は優しい笑顔のまま、灰となっていく。
「凛子、いくな……お願い、だから」
レイの涙が凛子の灰にかかっても、その流れはよどみなかった。
「レ、イ……?」
「ああ……」
「好き、よ」
凛子の唇が灰となって消えた。
「ありがとう」
そして彼女の身体は灰となって崩れ落ちた。
その掌には、桜色の貝殻の三つめが入っていた。

