おはよう、そばにいて

涙こみあげる美里の背を撫でながら、凛子の中で何かが変わっていった。

 翌日、凛子が益子病院204号室に向かうと、中はひどい有様になっていた。白いカンバスがあちこちに散乱しており、ベッドのシーツも投げ捨てられ、まるくなっている。
「レ、レイ?」
「凛子……」
 レイの鋭いまなざしを一瞥し、凛子は彼がこのように部屋を荒らしたのだと悟った。彼の両眸から涙が溢れている。大きく絵具でバツ印が描かれているカンバス。
「凛子、俺はもう駄目だ。検査結果がどんどん悪くなっていく。このまま俺は、死んでいくんだ」
「そんなことっ」
 言わないで、と叫び出したいのも、叫べなかった。おざなりの言葉など、かけてはいけないと思ったから。
 凛子はバツ印が散々に描かれたカンバスの周りを歩き始めた。すると無事であった一枚のある絵が目に飛び込んできた。
そのカンバスにいたのは黒髪ショートの、黒目がちの少女だった。
「これ、は……」
「お前だよ」
少し落ち着いたらしいレイが、ぽつり漏らす。
「お前の不愛想な顔を書いてやった」
凛子の胸はワインが注がれていくように高鳴った。ダメ、ダメよ。いくら言い聞かせても、凛子の胸はときめくのをやめない。鼓動の音が漏れ出しそうで、若干の緊張を強いられる。
「そうなの」
「ああ、俺も、お見舞いにくる人をちょくちょく書いておこうと思ったんだが、途中で厭になって、みんなにバツをつけといたんだ。だけどお前のは不思議と筆がのって、結構よく出来たから、もったいなくてな」
「そうな……の」
「ああ、俺が死んだら、やるよ」
  悲し気な横顔を見せ、レイが顎を引いた。
ドクン! 心臓が爆ぜ、鼓動が速まる。
それから静かな声で、思いを吐露する。
「本当はな」
「うん」
「俺、画家になりたかったんだ」
「画家に?」
 凛子が問うと、レイもそう、と小さく答える。
「こうみえても俺、全国絵画コンクールで優勝したこともあるんだぜ」
すごいわね、凛子が微笑むと、レイは落ち着きを取り戻したか、笑って。
「ああ、だけど、一度は書いてみたかったな」
「どこを?」
「海だよ、海」
 海……。凛子がレイに視線をあわす。
「俺は小さい時から体が弱くて、海水浴とか、そういうの全然行ってないんだ」
「海を見たくないの」
「見たいさ、それに書いてみたかったしな」
 もう、それも出来なくなるんだな。
レイのその一言で、凛子が意を決したように、彼の手を握って、告げた。
「じゃあ行こうよ、海」


 こうして凛子がドクターにかけあい、両親も説得して、レイを短時間ながら海に連れ出す作戦が練られていった。思いがけず両親は、
「それがあの子の望みなら、かなえてやってください」
と頷いて許可はすぐに下りた。薬を持ち、点滴を車内ではさしながら、助手の看護婦と岡田、凛子とレイが車に揺られた。
 近くの海までは七、八分で着いた。もう車のドアを開いた段階で磯のかおり、波の音が感じられた。空は青く澄み、むせかえる程だった。だけれどこの時は凛子も不快にならなかった。それはきっと、このこころの変化によるものだと、凛子は気づいていた。
「凛子っ貝殻集めようぜっ」
 最初は具合悪そうにしていたレイが、にこにこして浜辺を歩き出す。そのそばに寄りながら、凛子も貝殻を探す。まだ桜舞い散る春のことで、海風強い浜辺には誰の姿もない。
「あっレイ見て」
 ピンクに色づいた貝殻を見つけ、それを手にとる凛子。その手にレイの手が一瞬重ねられ、すぐに離れた。貝殻は彼の手にわたっていた。凛子の心臓がまたはねる。
「綺麗だな、ピンクの貝殻」
「ピンクの貝殻を三つ見つけると、恋がかなうんですって」
 岡田が遠くから声をかけてくれる。レイは荒い風にもまれながら、じゃあ、と凛子に貝殻を返した。
「俺の恋はもうかなっているから、お前にやる」
「いいの」
 凛子は淡くはにかんだ。まるで散っていく桜のように、はかなげに、微かに囁く。
「私の恋は、かなわないから」
 それは海風にかき消されて、レイには届いたようで、届かなかったかもしれない、と凛子は思った。
この恋はかなわない。
(だって恋を知った私は、もうじき死んでしまうんだもの)
「海って広いな」
レイが当たり前のことを感慨深そうに話す。
「本当に、そうね」
 凛子も同意する。風が強くて、浜辺にいる四人を容赦なく包み、コートをはごうとする。
「あ、ピンクの貝殻……」
 凛子はその淡い色合いの貝殻を拾って、これで、二つ目ね、と微笑んだ。レイもその様に思わず笑って、天をあおぐ。
「ああ」
「いつまでもこうして」
「空を仰いでいたいな」
「生きて、生きて」
「またお前とここで空が見たいよ」
 その時、凛子は顔をうつむけた。砂浜に涙が一粒落ちる。それが落とれたのも、何の涙だったかも、誰にも分からなかった。

八日後、レイは容体が急に悪化し、病室を移された。凛子は岡田に部屋に呼び出され、
「海に行った時はあんなに元気だったのに。もう、医者としても打つ手が、ないのよ……」
と、彼の苦悩に歪む顔でそれを告げられた。
「そんなに、もう悪いの」
「ええ、もって一か月だと思うわ」
「……病室に、行ってもいい?」
「ええ」

病室に向かうと、レイの父母らしき男女が、廊下で泣きじゃくっていた。
「どうして、どうして」
「あの子には、夢も希望もたくさんあったんですよ」
「それなのに」
「どうして神様は人間に寿命なんて与えたのかしら」
「あの子が何をしたというのかしら」
レイの母が声を殺して泣いていた。それを見つめたのち、凛子はふらふらしそうな己をなだめ、なんとかドアを叩き、病室に入る。
そこではずいぶんと痩せたレイが、白いベッドに横たわっていた。
「よ、お……」
もうあんなにはつらつとしていた声もあえかで、すぐそばに寄らないと聞こえない。
「レイ、聞こえてる?」
「ああ……もう、ダメみてえ、だな」
 レイが力なく笑みを浮かべる。
「短い付き合いだったけど、世話に、なった。けっこ、う楽しかった、よ」
「レイ、あのね」
 凛子は息を整え、この上なく優しく、穏やかな声で彼に告げた。
「あなたを吸血鬼にしてあげるわ」
 レイが目を見開くのが分かった。驚いている。凛子は彼の手を握って、さらに続けた。
「ただし、吸血鬼になればほぼ不老で、ほとんど不死よ。愛する人を見送る立場になるわ。それでも、いいのね」
「あ、ああ……」
 レイはありがとう、と囁いて涙を少し流した。
「じゃあ、今日は人がたくさんいて無理だから、明日、ここに忍び込んであなたを吸血鬼にします。それまで、頑張るのよ」
「うん、なあ、凛子」
「え?」
「俺、に、何か隠していること、ないか?」
 これに凛子は少し瞳潤ませて、すぐにそれをぬぐって、笑顔を繕った。
「ないわ。じゃあ、明日ね」