おはよう、そばにいて

満開の桜――。あとは散るだけの、桜。それが音もなく窓の外でちらちら散っている。それをレイがぼんやり眺めていた。
「レイ……?」
 なんだかその横顔がはかなげで、消えてしまいそうで、凛子が思わず声をかける。
「あ、ああ、お前か」
 レイはこのあいだより若干痩せたかのように見えた。顔色も、常も悪いが今日もやはりさえない。
「……この間は悪かったよ」
「……私こそ」
 凛子は思いがけず謝罪の言葉が出た自分に驚いたが、それも今は仕方ないとどこかで受け入れていた。目の前の彼が命の残り少ない、という同情もあっただろう。
「おかまは、おしゃべりだな」
 ふいに、レイがそんなようなことを呟いた。
「え……?」
「何か、聞いたか」
 見抜かれた? と思った。凛子は精いっぱいふつうを装って、
「ううん」
と答えた。レイが小さく笑って、
「そうか」
と頷いた。
「母さんがな、お前のことを人形みたいに綺麗だって言ってたよ」
「ありがとう」
 凛子が思わず赤くなって、うつむく。誰かに容姿をほめられると、我知らず頬が熱くなってしまう。そんなことないのに、と強く強く否定したくなる。その人がそう感じてくれたのは事実なのに。どうしてだか。それがまさに人間の年頃の女子みたいで、吸血鬼としては不本意だった。
「なあ」
「うん」
「吸血鬼って、みんなそうなのか」
「どういう、意味」
 レイがまた淡く微笑んで、凛子を見つめる。
「お前みたいに、綺麗なのか、ってこと」
 これに凛子の顔がまた赤みを持ちそうになる。白い頬に紅が刷かれたようになりそうで、凛子は落ち着け、と自分に言い聞かせた。
でも、男の人に褒められるなんて、初めてだったから。トクン、トクンと凛子のこころは音たてるようだった。
「分からない」
と凛子が告げた。それが本心だった。本当は、
「ありがとう」
と適当に答えることも出来た。だけれどそれをしなかった。出来なかった。レイの曇りのないまなこに、投げやりな言葉を返したくなかった。
「……お父さんも、お母さんもすごく綺麗だったってことは、聞いたことがあるけど」
「だった、って?」
「死んだの、二人とも、私が小さいころに」
 凛子はふいに、
(どうして死なんて彼の前で言ってしまったのか)
という自責の念が沸き起こった自分に気が付いていた。いけなかった。そう思うことは、レイには見抜かれてしまう。だけれど嘘は、つきたくなかった。
「……恋を知って、消えていった、の」
 本当に溶けて消えるように、ここからみえる舞う桜のように小さく、凛子は付け加えた。
「そう、か」
 レイの眼が凛子から静かに外された。凛子は無性に切なくなる。同情されるのか、とも思った。だけれど、レイの口からは思いがけず違う言葉が出てきた。
「じゃあ、俺ももうじき死ぬな」
「なん、で」
「恋をしているからさ」
 誰に?
思わず聞いてしまう凛子。レイが思わせぶりに笑む。
「お前に」
 えっと、凛子が顔を真っ赤に火照らせる。もちろん、男に褒められたことがなければ、男に恋されることもなかった凛子は、照れてうまい返しの言葉も出なかった。レイがいなすように微笑んで打ち消す。また、視線をそらして。
「嘘だよ、付き合ってる奴がいるんだ」
 幼馴染でもあって、まあ、よく会いに来てくれるんだけどさ。レイがそういう口ぶりに、確かにもっと会いたいという切ない思いが感じられ、凛子は胸から何かが爆ぜる音が出そうになった。それが何故か、は自分でもよく分からないまま、彼の次の言葉を待った。
「おふくろもだけど、眼に涙をいっぱいにためて、早くよくなるといい、なんて言ってさ。果物もたくさん買ってきて、一緒に食べようって。馬鹿だよなあ。こんな病気……よくなるはずもないのに……なのにみんな、俺がちょっとでも希望を持てるようにって……」
 レイの瞳から涙が溢れて、言葉にならなくなってしまう。凛子もまた、言葉を失った。大切な人たちと別離する哀しみ、今確実に足音たててやってくる死に対する恐怖。気が付けば凛子はレイの背を撫でさすっていた。生きていること、ほぼ不死で、ほぼ不老であること。それが罪かのように思われた。
「俺さ」
「はい」
「そいつらのためにも生きていたい、んだ」
 そのまっすぐな視線を捉えていると、凛子は一瞬、
「わかった、吸血鬼にしてあげる」
と言いたくなって、慌ててこらえた。それを、そんなことをしてしまったら――。私が消えてなくなってしまうかもしれない。危ない、これ以上のことは。
凛子がベッド脇からドアの方へ体を向けた。
「とりあえず、今日はもう帰るね。お大事にね」
「あ、ああ、もうそんな時間か。気を付けてな」
どうしてあげるのがいいのかしら。 
凛子は帰る道中も悩んでいた。吸血鬼にしてあげたら、そうしたら彼は生きていくことが出来る。だけどその代わり、自分は死ぬかもしれない。いつ死んでもいいと思っていたのに、いざという時には足がすくむ。怖い。日に焼けて灰になっていく自分を、想像するだけで恐怖を感じる。だけどあのような、生きていきたいと切望する彼を見ると――。
 凛子のこころは千々に乱れた。

「おはようございます」 
翌日、凛子が登校をすると、朝の光射す教室には前髪、だけではなかった。あの美人なクラスメートの美里の姿も見えた。
「おはよう、凛子ちゃん」
「おはよう、美里ちゃん」
 二人で挨拶を交わしたのに、会話が続かない。しばし落ちる沈黙。それは美里の方から破られた。
「凛子ちゃん、レイ君のお見舞いに来てくれたんだね」
「うん」
「本当に、ありがとうね」
 そう言う美里の笑顔は少しくもっていた。もしや、これは。なんとなく凛子は察していた。
「レイ君、どうだった?」
「顔色よかったよ」
「ならよかった」
 美里が心底安堵したようにうなずくので、ああ、彼女はこの子か、と凛子は知った。そこで凛子はさりげなく話をふってみた。
「二人は、付き合ってどのくらい?」
「えっ付き合って一年と半年……って、なんでもないよっ」
 それでも凛子がにこにこしているので、美里も気恥ずかしくなったのだろう。
「レイ君のおしゃべり」
 そう悔しさを滲ませながら。
「レイ君とは、幼馴染って感じで。発病するまでレイ君も私も同じスポーツクラブに通っていて、それで、仲良くなったの。サッカーでシュートを決める彼は、本当に眩しくて、綺麗で……ってごめんなさい、こんなつまらない話」
 ううん、と凛子が言う。
「そう、いいわね。彼が大好きなのね」
 凛子がほのかに笑うと、美里が顔を真っ赤にして、首を振る。
「ねえ、もし彼が」
凛子が口を切る。
「どんな体になっても、好き?」
「それは……」
 美里は強いまなざしで凛子を射抜く。
「病気で痩せたりする、ってことでしょう。好きよ。彼がぼろぼろの身体になっても、私はずっと、好きよ」
 そう話す間にも、美里が泣き始めてしまったので、凛子がハンカチを貸して、背を撫でてやった。
「本当は、早く、治って欲しいの」
「早く治って、もっと顔が見たいの」
 涙こみあげる