翌朝。まだ夜が明けない薄闇の中、美鶴は牛舎で仕事を始めた。冬の時期の早起きは辛く何年続けても慣れることはない。養父母と三人で手分けしながらの作業を続け、搾乳が終わるころには雪はやんでいた。東の空に朝日がゆっくりと顔を出し始めた頃、家に戻り朝食を取る。それからゆっくりと風呂に入ると着替えて明彦の車に乗り込んだ。
診療所に到着すると更衣室で薄緑色の白衣に着替える。夜勤明けの尾見は朝の検温に忙しそうだ。
配茶の準備をしていると町でひとつしかない遠くの給食センターから食事が運ばれてきた。保温のためのケースに入った食事を受け取りエプロンを付けて入配膳を始める。
十床あるベッドの半数は、ひとり暮らしで身の回りのことが出来ない高齢の患者が入院している。身寄りのない高齢者が増えて、診療所の役割も変わらなければいけないと所長はよくぼやいていた。
 朝食の時間が終わると透の部屋へと向かった。尾見から部屋のカーテンを開けてくるように指示があったのだ。
ノックをするが返事はない。透はまだ目を覚ましていないのだろう。
「志木さん、おはようございます」
声を掛けながら部屋に入りカーテンを静かに開けた。差し込んだ日の光が透のベッドを照らした。頬には赤みが戻りとても穏やかな顔をしているように見えた。
「本当に綺麗な顔。東京の人ってみんなこうなのかな。肌も綺麗でまつ毛長くて羨ましい……」
触れてみてい衝動にかられ指を伸ばした。次の瞬間透の目がうっすらと開き、美鶴は驚いて病室を飛び出した。階段を駆け下りて詰所に飛び込むと、尾見の腕を掴む。
「尾見さん大変です!!」
「白川さん、そんなに慌ててどうしたの?」
「志木さんの目が開いて……!」
 意識を取り戻したと伝えると、看護師たちは医師を呼び病室へと向かった。すぐに再検査が行われたが異常はなく、結果としてかすり傷以外は問題なしとされた。
けれど、半日以上意識が戻らなかったことに関しては、後々なんらかの障害が出てくるかもしれないという。
それからまもなく警察がやってきて当時の状況を長々と話を聞いていた。透の負担になりやしないかと心配になった頃、尾見が昼食のお膳を美鶴に手渡した。
「はいこれ」
「これって、志木さんのお食事……」
「これ持って行って、食事の時間なのでそろそろいいですか~って割り込んじゃいなさい」
「いいんですか? そんなことして」
「いいのよ、今の志木さんには安静が必要なの。先生もそう言っていたじゃない」
 主治医は「今日明日は特に安静にしているように」と言っていた。事情聴取は必要なことだが長時間行うのは彼にとっては負担だろう。
「確かにおっしゃってましたね」
「でしょう。事件性もないそうだし、必要ならまた明日来てもらいましょうよ。私はもう帰る時間だから後は関さんに任せるわ」
 日勤の看護師の肩を叩くと「分かりました」と迷惑そうな顔で頷いた。
美鶴は透の昼食を持って病室へと向かった。丁度警察官が二人出てくるところに出くわしホッとする。邪魔して怒られやしないかと内心ドキドキしていたからだ。
「お疲れ様でした」
 軽く会釈をし、入れ違いで病室へ入った。
「失礼します」
透は上半身を起こした状態でベッドに座っていた。美鶴と目が合うと、「なんですか?」と少しけだるそうに言った。
奥二重の意志の強い目。低く透明感のある声も落ち着いた大人の雰囲気がある。美鶴は一気に緊張した。意識のない彼にあれだけ不躾な視線を送っていたにもかかわらず、今は顔を上げることもできない。
「……お、お食事です」
オーバーテーブルにトレイを置くと逃げるように病室を飛び出した。
「どうしよう。変だったかな……おかしな子って思われたよね。どうしてもっと自然にできなかったんだろう」
 冷えた窓ガラスに額を押し付けてひとり反省会を繰り広げてみても埒があかなそうだ。二人いる看護師は忙しそうに走り回っている。雪が止んだおかげで外来が混雑しているようだった。美鶴は昼食の下膳をして回った後、病室の掃除に取り掛かった。四人部屋が二部屋。個室が二部屋。途中で話しかけてくる患者の相手をしているとなかなか先に進まないのがもどかしい。
ひと段落付いたところで透の様子を見に行った。配膳した食事は手つかずのまま残っている。
「すこしでも食べませんか?」
「悪いけど、食べる気がしないんだ」
 美鶴を一瞥すると目を閉じてしまった。これ以上話しかけるなとでも言いたげだ。
「わかりました。なにかあればナースコールで呼んでください」
仕方なく下膳することにした。看護師に報告すると「様子をみましょう」というだけ。
お腹が空いたら食べるだろうとあまり気にしていないようだった。けれど、その日の夕食も手を付けなかった。
翌朝訪室すると透はベッドサイドに腰かけて、窓の外を見ていた。
「……あの。今日は朝絞ってきた牛乳を持ってきたんです。ウチの飼育は放牧なのでひと味違って栄養価も高くて、飲んだら元気になれますよ」
 美鶴は一気に話した。言い淀まないように何度も練習したせいで少しセリフみたいになってしまった。透の反応はなかったが美鶴は話を続けた。
「先生が言ってたんですけど体力さえ回復すれば退院できるんですって、あんな事故だったのに無事で本当によかったですね」
 明るく励ましたはずだった。でも透は深く息を吐く。
「……助からなければよかったんだ」
美鶴は自分の耳を疑った。聞き捨てならない言葉だった。たくさんの人間が透を救うために動いた。みんなが回復を祈った。それを理解していなはずがないだろうに。
「冗談ですよね?」 
「どうしてそう思う? 本気だよ」
「志木さんはそれでよくても悲しむ人がいるでしょう? 家族とか、恋人とか……その人たちのことも考えてみてください」
 透はゆっくりとかぶりを振った。その背中はどこか寂しげでとても小さく見える。
「いないよ」
「え?」
「だから、いないんだ。そんな人間はひとりも」
「……そんなはずありません。志木さんが気づいていないだけで悲しむ人は必ずいます」
 励ますつもりだった。生きる希望を持ち直してほしくて必死だった。けれど透は美鶴を拒むように睨みつけた。
「偽善だろ。君に俺の何がわかる? 知ったような口を利くのはやめてくれ!!」
美鶴は口を噤んだ。これ以上言葉を尽くしても透には伝わらないだろう。「失礼します」とだけ言って逃げるように病室を飛び出した。
その日一日は何かと言い訳をして透の部屋には近づかないようにしていた。夕方になって尾見が出勤してくると昼間の出来事を話した。
勝手をして患者を怒らせてしまった。叱られて当然と思ったが尾見は「おつかれさま」とだけ言って帰宅するように促した。
「気を付けて帰りなさい。また明日ね」
「尾見さん。……すみませんでした。お先に失礼します」
 診療所の外に出ると明彦が迎えに来ていた。美鶴は足早に車へと向かう。
「お帰り、美鶴。疲れただろう。早く帰ろう」
変わらない笑顔が出迎えてくれる。これが当たり前の日常だ。思い合う家族がいる。だから透も同じだと思い込んでいた。家に帰れば瑤子もいる。でももし、この当たり前と思っていた存在が透にいないとすれば、自分の言葉は彼をただ困らせ傷つけただけだったのかもしれない。
ああ、やってしまった。突き上げてくる後悔に心が小さく震えた。とにかく明日、一番に透に謝罪しようと決めた。