第一

拙者親方(せっしゃおやかた)と申(もう)すは、
お立(た)ち会(あ)いの中(うち)に、 
御存知(ごぞんじ)のお方(かた)も
御座(ござ)りましょうが、 
御江戸(おえど)を発(た)って
二十里上方(にじゅうりかみがた)、 
相州(そうしゅう)小田原(おだわら)
一色町(いっしきまち)をお過(す)ぎなされて、 
青物町(あおものちょう)を登(のぼ)りへ
おいでなさるれば、 
欄干橋虎屋藤衛門(らんかんばしとらやとうえもん)、 
只今(ただいま)は剃髪(ていはつ)致(いた)して、
円斎(えんさい)となのりまする。 

元朝(がんちょう)より大晦日(おおつごもり)まで、 
お手(て)に入(い)れまする此(こ)の薬(くすり)は、 
昔(むかし)ちんの国(くに)の唐人(とうじん)、 
外郎(ういろう)という人、我(わ)が朝(ちょう)へ
来(き)たり、 

帝(みかど)へ参内(さんだい)の折(おり)から、 
この薬(くすり)を深(ふか)く籠(こ)め置(お)き、
用(もち)ゆる時(とき)は一粒(いちりゅう)ずつ、 
冠(かぶり)のすき間(ま)より取(と)り出(いだ)す。 
依(よ)ってその名(な)を帝(みかど)より、 
とうちんこうと賜(たまわ)る。 
即(すなわ)ち文字(もじ)には、 
「頂(いただ)き、透(す)く、香(にお)い」
と書(か)いて「とうちんこう」と申(もう)す。 

只今(ただいま)はこの薬(くすり)、 
殊(こと)の外(ほか)世上(せじょう)に弘(ひろ)まり、
方々(ほうぼう)に似看板(にせかんばん)を
出(いだ)し、 イヤ、小田原(おだわら)の、
灰俵(はいだわら)の、さん俵(だわら)の、
炭俵(すみだわら)のと、色々(いろいろ)に
申(もう)せども、 
平仮名(ひらがな)をもって
「ういろう」と記(しる)せしは、 
親方(おやかた)円斎(えんさい)ばかり。 

もしやお立(た)ち会(あ)いの中(うち)に、
熱海(あたみ)か塔ノ沢(とうのさわ)へ湯治(とうじ)に お出(いで)なさるるか、 
又(また)は伊勢御参宮(いせごさんぐう)の
折(おり)からは、
必(かなら)ず門違(かどちが)いなされまするな。

お登(おぼ)りならば右(みぎ)の方(かた)、
お下(くだ)りなれば左側(ひだりがわ)、 
八方(はっぽう)が八棟(やつむね)、表(おもて)が
三棟(みつむね)玉堂(ぎょくどう)造(づく)り、 
破風(はふ)には菊(きく)に桐(きり)のとうの
御紋(ごもん)を御赦免(ごしゃめん)あって、 
系図(けいず)正(ただ)しき薬(くすり)でござる。